ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491708hit]
■ノロい呪い……座布団取っちまいなさい(^_^;)/『桃色サバス』7巻(中津賢也)/『蟲師』3巻(漆原友紀)
澁澤龍彦なども小説の題材に使った「うつほ舟」伝説をモチーフに、「浅茅が宿」的夫婦の情愛を描く。
異界が現世と違う時間が流れていることは、お伽話にはよくある設定だが、それを「不幸」としてではなく「せめてもの救い」として捉えた好編である。
『重い実』。
凶作の年ほど豊作になる奇妙な村。村人はそれを「別れ作」と呼び、「豊作の代償に『弱い者』がご先祖さまに取られる」と口々に言う。
贄の印は、口内に生える「瑞歯」。そして今年、瑞歯が生えた男は、この村に豊作をもたらしたはずの祭主だった。
「永遠の生命」をモチーフにした物語は数あるが、これほどに美しい物語は珍しい。萩尾望都の『ポーの一族』、諸星大二郎の『暗黒神話』、あさりよしとおの『ワッハマン』(^o^)に並ぶ傑作だろう。大地が永遠であるならば、永遠の命も決して恐れることはないのではないだろうか。
『硯に住む白』。
硯師のたがねが作った硯は、彼女の婚約者を殺し、持ち主を次々に死に至らしめていく。そして今度は蔵の中にしまわれた硯をいたずらした子供達が病にかかって……。
今巻では一番オーソドックスな妖怪退治ものかな。もちろんこれもよくできた短編なんだけれども、ほかのが傑作揃いだと印象が薄くなってしまうのがなんとももったいない。
『旅をする沼』に登場した収集家・化野(あだしの)先生の再登場、かつ失敗談としても楽しめる一編。
『眇(すがめ)の魚(うお)』。
「すがめ」とは片目、めっかち、あるいは斜視、やぶにらみのこと。「すがめで見る」という言い方をした時には「横目で見る」という意味になる。昔、差別語に指定されたこともあったが、みんなが使わなくなったら差別語であることも忘れ去られた(^o^)。おかげでこうして堂々とタイトルに使われました。
なんと「蟲師」ギンコの誕生編(カラーページ付き)。ギンコって本名じゃなかったんだね。「ギンコ」は「銀蠱」だとわかったけれど、本名の「ヨキ」ってのは「斧」って意味かなあ。
岩崩で母を失った物売りの息子・ヨキは、森に住む片目の女、ぬいに拾われる。ぬいはかつて「蟲師」を生業としていたのだが、ある時「トコヤミ」に夫と子供を捕われた。それ以来、その「トコヤミ」の住む池のそばに六年も住み続けているのだという。
「こんな恐ろしい蟲、どうして生かしておくんだよ」
ヨキの詰問にぬいは静かに答える。
「畏れや怒りに目を眩まされるな。皆、ただそれぞれがあるようにあるだけ。逃れられるモノからは知恵ある我々が逃れればいい。蟲師とは、ずっとはるか古来からその術を探してきた者達だ」
「蟲師」の時代設定が今からやや昔に設定されているのは、現代の我々が「あるようにある」ものを否定しているからではないか。口では「偏見をなくそう」と言いつつ、他人の欠陥を、世の闇を忌み嫌う人間のいかに多いことか。
醜いもの、汚れたもの、奇妙なもの、狂ったもの、害をなすもの、それらもまたこの世界を構成する一つのものではないのか。「蟲」はその象徴である。そして「蟲」を心の内に潜ませていない人間は誰一人いないだろう。
ヨキは銀蠱に出会う。トコヤミの底に住む目のない魚に。そしてトコヤミから出て再び現世の光を見るために、片目と記憶を失う。闇から抜け出すためにはなんでもいい、思いつく名を自分の名とすればいい。
そして、そのときからヨキは「ギンコ」となった。
ギンコもまた、いつかはトコヤミに飲まれる日が来るのかもしれない。それが「蟲」を見続ける者たちの宿命であるなら。ギンコは「再び会おう」と約束した人達とももう会えないのだろうか。
でも、いや、だからこそギンコは蟲たちを見続ける。自らが「あるようにある」ために。
短く書くつもりがまた長くなっちまったな。いや、これもいつものこと。
でも実はこれでも全然書きたりないのだ。こういうのはいったいどういう蟲に取り憑かれてるんだろうね?
しげ、クリスマスイブだというのに外出である。
なんでも職場の人たちとパーティーをするという。
「冷蔵庫にケーキ入れてるから、店が終わるころに持ってきてくれん?」
「店が終わるころっていつだよ」
[5]続きを読む
12月24日(火)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る