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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■しとしとぴっちゃんしとぴっちゃん/アニメ『プリンセスチュチュ』第1話/映画『ピンポン』
もともと、キャラクターにペコ、スマイル、アクマ、チャイナ、ドラゴンなどとニックネームをつけるのは1、2時間という短い時間でキャラクターを印象付けるための映画的手法である(もともとは短編小説の手法。長編だと主人公は逆に名前を変え職業を変え、という場合が東西を問わず圧倒的に多い。ジャン・バルジャン=マドレーヌとかね)。長編で仇名を使うと、これ、かえってキャラクターが無個性化かつ匿名化するんだよね。マンガ長編でこの手を使った松本大洋がどれだけこのことを意識したかは分らないけれど、恐らく、マンガは「妙な違和感」を内包してしまったのじゃなかろうか。
ペコにだって本名はあるはずだ。マンガの中で彼がどれだけ本名で呼ばれるかは知らないが、しかしペコと仇名をつけられれば、ペコはペコ以上のものでも以下のものでもなくなる。ペコでない時間を過ごすときもあるはずなのに、読者は彼をペコとしてしか認識しない。これは作者にとっては不利なはずなのだ。それを松本大洋が押し通して長編をものにしたとすれば、さて、マンガのほうはどんな展開になっているのか、気になるところだ。
映画のほうは2時間しかないから、そういう「違和感」はほとんど存在しない。ペコにも星野裕という本名があるのだが、彼は常にスマイルの目を通して見つめられる構造になっているので、終始ペコとして機能している。スマイルやアクマには、まだ、スマイルやアクマでない時間も描かれているのだが、ペコだけは特別なのだ。まさしくペコは、子供のころもスランプのときも、映画の間ずっとペコであった。「『さん』くれろ」のセリフは「ペコ」の枕詞であり、まさしくこのセリフがペコを「映画」の主人公に仕立てている。マンガが取り入れた映画的手法が、本来の生まれ故郷である映画に戻っていったような印象だ。
逆に、マンガチックな表現が違和感を生じさせているシーンの最たるものはバタフライジョーの背に生えた蝶の羽である。一見、映画的に見えるが実はリアルさに欠けるあの表現は、映画の整合性を考えればカットしてしかるべきであった。原作を読んでいるよしひと嬢に「あのシーン原作にもあるの?」と聞いたら頷いていたから、これがまさしくマンガを映画に移すときの困難さを克服できなかった実例だろう。
これは映画オリジナルじゃないか、と踏んだのはオババだ。
あんな艶っぽいキャラは松本大洋の原作にはとても登場しそうにないなあと思って、よしひと嬢に聞いて見たら、原作はホントにただのオババなデザインだそうな。この変更は正解で、奇しくも映画とマンガとでは「婆さん」の持つ記号の意味の違いを表している。
マンガだと「婆さん」はどのマンガでも地位を確立していて、「仙人」であったり「マスター」であることの記号をデザイン段階から持ち得ている。『らんま1/2』のシャンプーの婆ちゃんなんかがいい例だ。それに対し、映画では婆さんは何かを付け加えない限り、どうしたってただの婆さんにしかならない。北林谷栄も三戸部スエも丹阿弥谷津子も千石規子も野村道子もみんな普通のお婆ちゃん。日本のお婆ちゃんで普通でない婆あを演じたのは、『紅孔雀』で黒刀自を演じた毛利菊枝さんとか、『大盗賊』で地獄谷の婆を演じた天本英世さんくらいのものかも(^o^)。原泉も確かなんかの魔女演じてたような。
つまり、オババを市原悦子や泉ピン子が演じてもインパクトがないのだ。夏木マリを配役し、艶っぽさを加えたことによって、彼女に関わるペコやバタフライジョーにまでその「魔力」が伝播する。夏木マリがかつて憧れた男だからこそ、竹中直人は竹中直人なのにカッコよく見えるし、ペコの復活にも説得力が生まれるのである。
彼女をオババと呼んだのはペコたちだろう。この呼称はまさしく「魔女」としての「オババ」である。だとすれば、そのキャスティングに関しては、マンガの絵面よりも、「魔女」を演じることのできる俳優は誰か、という視点で選ぶのが当然の帰結だ。「マンガのイメージと違う」ということで、夏木マリを否定するなら、映画の見方をまるで知らないと排斥されても仕方なかろう。
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08月17日(土)
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