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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■懐かしき人々の狂乱
 受付にも愛上嬢だけを座らせておくわけにはいかないので、私とこうたろう君で座って待っている。……芝居の公演の受付が四十男二人ってのはいくらなんでもマズいと思うぞ。塩浦嬢とかが当日だけでも来てくれりゃ、受付くらいなんとかなったんだろうけど、あの子も貧乏で来られなくなったらしいし。
 コヤの中では、鈴邑君が演出そっちのけで舞台の指示を取りしきっている。本来なら、舞台監督がそこまで出しゃばるのは、指揮系統の面から言ってもあまりいいこっちゃないんだが、演出より舞台監督の方が実力があって実質的に頼りになるんだから仕方がない。タイムテーブルを確認しているあたり、堂に入ったものだ。
 ああ、お手伝いに見学だけだったはずのラクーンドッグさんや、つぶらや君のお友達も三人ほど走り回っているぞ。でも、本来の劇団員である「彼」の姿はない。年に1回しかない公演だってのに、事前に休みが取れなかったのか。そんなに職場での立場がないのか。
 だからみんな、芝居をやれる態勢作ってから、公演打てよなあ!

 ……と、内心、準備の不手際にイライラしてるのは私だけではないので、口には出さない。私の仕事は撮影だけなので、それに専念するだけである。
 「メイクが遅れてる!」なんて声が聞こえたが、気のせいだろう。

 いよいよ本番。

 今回の芝居は2本立てである。
 『HERO』は、よしひと嬢の脚本、主演。
 私以外の脚本を上演するのは初めてなので、これが試金石になって、ほかの人たちも脚本を書いてくれることを望んじゃいるんだが、どうなることか。
 あるシナリオライターの男の妻が殺人を犯すのだが、彼女は「これは『正義のヒーロー』がこの女の体を借りて、悪を倒したのだ」とトランス状態で語る。
 その殺した相手というのが男の不倫相手なものだから、果たして、妻は本当に「ヒーロー」に体を乗っ取られたのか、それとも、これはすべて妻の演技なのか、はたまた妄想なのか、真相がが分らないまま終わる、というのが、つまり「リドル・ストーリー」としての効果を狙っているわけなのだが、ドラマとして、そこで終わっちゃうのはチト弱い。
 本当は、そこまでをもっと凝縮してムダなセリフを省いてプロローグにして、不倫相手の死体をどうやって誤魔化すか、というドラマに仕立てた方がずっと面白くなるんだけれど、そこまで練り上げるのは時間的制約もあって難しかったのだろう。
 それならばそれで、芝居にメリハリを付けて、途中、ダレさせないようにしなきゃならないのだけれど、ともかくみんな揃って下半身の動きが弱い。
 あのなー、愛人がよー、男を責めるんならよー、抱きついて、腰に手を回してキスして、甘えてるように見せかけながら「アンタ、離さないから」って絡みついて見せるくらいの情念ほとばしる演技見せなきゃ、観客はリアルさなんて感じてくれねーよ。
 芝居やるなら、その程度の度胸はつけろよ。


 『ねこまん』は私の脚本なので、演技や演出を貶すと、責任を役者に転嫁するような形になっちゃいかねないので言いにくいのだが、それでも客観的に見れば、あちこち穴だらけなのは否定出来ない。
 やっぱり、ギャグなのにセリフとセリフの間が徹底的に悪い。
 客に絡む脚本を書いているのに、役者が客を無意識のうちに怖がっているのが分る。これはイタイ。
 しげからもらった原案は、「猫だと名乗る女が現れる」だけだったので、それをマンガ家の設定にして、編集者との四角関係に仕立ててギャグにした。ヘタクソな歌詞も交えて、ミュージカルっぽくしたのは、クレージー・キャッツ映画へのオマージュである(植木等よりも、人見明のセン)。
 だから、歌い手は客に絡まなければ(実際に客にしなだれかかったりしなくても、心理的に絡んでくれりゃそれでOKなんだが、それもなかった)この脚本はギャグとして成立しないんだけど、そこに演出もキャストも気づかなかったのかなあ。
 笑いが好きなら、みんなもっとコメディ見ろ。昔のも今のも。「趣味に合わない」とか「面白くなかったら損」とかいう発想は、役者には厳禁だ。そんなお高く止まって取り澄ましたような態度で、人の心を動かせるものかどうか、考えてみればいい。


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05月12日(日)
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