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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■イベント近し、ネタは無し/『これで古典がよくわかる』(橋本治)/『だめんず・うぉ〜か〜』2巻(倉田真由美)ほか
「知識なんていらない、古典は『体』で覚えろ」という橋本さんの意見は痛快だし、さすがは『桃尻語訳 枕草子』を出しただけの人ではあるなあとは思う(もっとも後の『徒然草』と『源氏』と『平家』はつまんなかったけど)。
ただねえ、「古典に出会わないままの人に古典の面白さを伝えたくってこの本を書いた」という橋本さんの気持ち、それはイタイほどわかるんだけど、結局この本を手に取るやつって、「黙ってたっていずれ古典に触れる」人間なんだよね。橋本さんが本来ターゲットにしたい「古典から遠い現代人」は、賭けてもいいけど、絶対にこんな本は手に取らない。
実際に手にさえ取ってみれば、「平安時代の人間は漢文が読めなくて、竹のペンで振りガナを字の横ちょに書きこんでいた」とか、「兼好法師は文章を書き損じても紙を反古にするのがもったいないから、そのまま書いていた」とか、「なんだ、昔の人も別にエラクないじゃん」的な一行知識がてんこもりで面白いんだけれど、やっぱり「古典に遠い」人は読んだりしないのだ。
それは、実はその人が「古典に遠い」んじゃなくて、もともと「勉強に遠い」人なんだよね。で、実は学校なんかで成績優秀で、バリバリ勉強してるように見える人たちだって、基本的には「勉強に遠い」人間なのよ。
どういうことかっていうと、実のところ現代の日本で、とりあえず社会生活を送ろうと思ったとき、「これだけは必要」って知識が皆無になっちゃってるって状況があるのだね。
「そんなことない、漢字の読み書きくらいは必要だ」
「基礎的な算数くらいはできないと、おカネの計算一つにしても困るじゃないか」
そう反論する人もいるだろうが、でも現実に「漢字が読めなくても」「算数ができなくても」暮らしてる人はゴマンといるので、この意見は成り立たない。そう思ってるのは「最低限の教養は必要」って幻想にとらわれてるだけなんだってば。
もちろん、「完全に無教養」なんて人間もそうそういはしないから、現実には「教養に偏りのある」人間が寄り集まって、それぞれの知識を補完しあってこの社会は成り立っている。
例えば、学校というシステムを考えて見ればそれは実に明確になるんであって、国語の先生は過去の古典にも通じ、現代文学もたくさん読破して、いかにも知識の権化みたいな顔をして授業をしている。けれど、英語は中一程度の知識もなかったり、因数分解もできないなんてやつらはゴロゴロいる。あるいは、ムツカシイ数式をいとも簡単に解ける数学教師が、初歩的な漢字も書けない、なんてことはよくあるのだ。
だから、「数学できんとが、なんで悪いとや」という言い訳が全ての教養について言えたりするのだ。「国語ができんだって、英語ができんだって、歴史を知らんでも人間の価値とは関係なかろうもん」と開き直れるのよ、今ではね。
世間は「あの教養もこの教養も」と、情報だけは提供してくれるが、実はそのほとんどのものを全て捨て去っても、生きて行けたりはする。で、要領よく、一部の知識だけを活用していけるやつは、脳みそがパーでも高学歴ってことになったりもするのだ。
……ご近所に、野球と女の会話だけで世渡りしてるようなやつ、いないかい? で、そいつの学歴聞いたら、ウソだろオイっていうくらい、偏差値高いとこだったりするんだよ。
『桃尻語訳 枕草子』が出たとき、やはり賛否両論が巻き起こった。
「否」について一言でいえば、「不謹慎」ってとこかな、笑っちゃうけど。
この本でも、そのときの騒動の憤懣のあとがチラホラと文中に現れていて、「学校の先生はこの訳にマルをつけないかもしれないけれど、間違いではありません」と言い切っている。
そりゃそうだ、「春は曙」を「春って曙よ!」と訳して、どこが誤訳になるのかね? たいていの国語教師は「この下には『をかし』が省略されているので、『(が趣深い)』を補わねばならない」とか言うのよ。
……趣深い、なんて日本語、日常で使ってる人、手をあげてみい。
結局、従来のアカデミズムが、古典の世界を象牙の塔にしてしまっており、それは古典に限らず、全ての学問・教養の分野で普遍的に行われている、というのが現状であるのだ。
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12月26日(水)
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