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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■一人で見る映画/映画『千と千尋の神隠し』
 「日本が戦後50年で復興できたのはなぜでしょう。スシです。スシを食べてるからです。スシを食べていれば太りません。たまに太る人もいますが太りません。アメリカ人やイギリス人は今、日本人を見習ってスシバーに並んでいます」
 思わず自分の耳を疑いましたね。何を言うとんのやこのおばちゃん、これは選挙演説ではないのかと思いつつ、いや、今日は『千と千尋』を見に行くんだ、ちょっと聞いていたいけど、と後ろ髪を引かれつつ、天神に向かったら。
 天神にもいました。扇千景以上に強烈なのが。
 一応福岡ではオシャレな場所ってことになってる岩田屋G‐SIDEの広場中に響き渡る『つっぱりハイスクールロックンロール』。
 「みなさん! 横浜銀蝿のランです! 嵐と書いてランと読みます! 暑い中、福岡までやって参りました! 福岡は暑いです!」
 ……オマエがもっと暑苦しくしとるわ。

 しかし映画を見る前にこんなキツイ二連発をくらって、さて、それを上回る感動を与えてくれるのか『千と千尋』と思いながら見ました。
 で、結果はと言うと。


















 うーん。
 二十年前に見てたら興奮して「『千と千尋』はいいぞお!」と触れ回ってたでしょうねえ。
 いや、楽しめはしたんですよ。
 ああ、久しぶりに「宮崎駿のマンガ映画が復活した!」って気分に最初はなって。

 実際、次々と出てくる妖怪どもの個性と来たら、これまでの宮崎作品の中でも随一と言っていいくらいでした。
 しかもそれが単にキャラクター造形として勝れてるだけでなく、当然のごとく個々の仕草、動きの違いで表現されているんですから。
 その妖怪たちの「動き」がこの映画の主人公、千尋の動きを相対的に魅力的に見せることに成功しています。
 ひょろ長い手足の操り人形のようなぎこちない動きはそれだけでフリークス的。もちろん、人間であるからこそ彼女はこの神々の住む不思議の町ではフリークスなんですけど。
 千尋が最初は弱虫の女の子だったのに、どんどん御都合主義的に強くなっていくのも構わないんですよ。目から流れる涙が眼球以上に大きいくらいの大げさな表現になってたって、それはマンガ映画の許容されるべきウソなんですから。
 ああ、やっぱりマンガ映画は「知恵と勇気で誰かを救いにいく話」だよなあ、もう『もののけ姫』でテーマがどうのってのはいい加減、宮崎監督も飽きたろう、『長靴をはいた猫』や『カリオストロの城』の単純明快な感動がいよいよ再来か、と思ってたんですが。

 やっぱり出てくるんですねえ、エコロジーが。
 描写としてそうしつこくはない。まあ、ギリギリ鼻につかない程度だと言えるかもしれません。
 でも、ドロドロに腐ったクサレガミかと思っていたら、からだの中に詰まってた自転車だのリアカーだのといった人間の捨てたゴミを全て吐き出したらきれいな河の神に戻った、なんて描写は、ちょっとあからさまなんじゃないですかねえ。
 で、そういう点を突っ込んでいったら、矛盾もボロボロ目についてくるんですね。
 その自然の神々のヨゴレを洗い流す湯屋の湯を沸かすのに、人間が作ったような釜を使ってたり、エントツから煤煙を空に撒き散らしたりしてるのはどうしてなんだよ、とか。
 パンフレットで宮崎監督自身、「こういうテーマがあるとか現代をこう思うとか、ややこしい話とは違います。10歳くらいの小さな友人たちのために作ろうと思っただけなんです」とか言っときながらなぜ、中途半端にエコが混じちゃうんですかね。

 映画見終わったヤツで、やっぱりそういうこと話し合ってる連中がいるわけですわ。
 「あの河の神の意味はね」とか、「カオナシにはどんな意味があったんだ?」とか。
 女の子や子供が「ネズミがかわいかったね」とかしゃべってるほうがよっぽど感じがいい。

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07月20日(金)
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