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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■いつでも時代は狂っている/舞台『みんな昔はリーだった 〜EXIT FROM THE DRAGON〜』
 観劇の注意もなかなか笑かしてもらえた。この芝居、観劇中は「ジャッキー・チェンのことは思い出さないで下さい」とのことである。思い出していいのは、「ジミー・ウォン、ノラ・ミャオ、ブルース・リャン、倉田保昭、ホイ三兄弟」とからしい。劇場では小さな笑いが起こっていたが、このあたりの名前に反応できる客はあまり多くはなかったようだ(苦笑)。
 ノラ・ミャオは本編中にもヒロインの仇名として登場する。言うまでもなく、『ドラゴン怒りの鉄拳』『ドラゴンへの道』などのヒロインだが、演じた京野ことみに似ているかと言われれば、藤原紀香よりは似ている、という程度である。ノラ・ミャオをリアルタイムで記憶している世代も今は40半ばだろう。脚本の後藤さんにしたところで、お兄さんがリーファンではなかったら、ノラ・ミャオへの思い入れを描けたかどうか。

 けれども芝居が面白かったのは実はこの前説までである(笑)。

 作品自体は「みんな昔はリーだった」というよりは「みんな昔はすわしんじだった」とでも言えばいいような怪作である(すわしんじも誰だか知らない人、多いだろうがもう説明はしない)。
 ともかく、当時のあの「異常」と言うしかないブルース・リー・ブームを知らない人にとっては、意味不明に見えてしまうのではないか。

 「みんな」と題されてはいるが、1973、4年ごろ、ブルース・リーにかぶれた少年たちは、軒並み馬鹿か不良だった。
 本編中でも、まともに「武道家」としてのリーを尊敬し、カンフー(実際には截拳道)を学ぼうとする少年は一人しかいない。あとは、リーの怪鳥音やポーズを表面だけなぞって、リーを知らない少年を相手に暴力を振るい、いじめを行っていたどうしようもないやつばかりであった。

 リーのカッコよさが、それを真似ることで、少年たちに心理的ないじめを正当化させてしまっていたのがあの時代である。
 現代、いじめ自殺を教育機関が手をこまねいて放置しているのと同様、あの時代も全国に巻き起こったいじめの嵐に対して、学校は何一つ有効な手立てを取ることができないでいた。

 物語はあの時代の「現実」を見事に活写する。
 劇中でもそうしていじめられる「だめゆき」という少年が登場する。
 周囲のリー・ブームに乗ろうとし、リーを知らないがゆえに乗り切れず、ヒロインの少女と仲がいいために友達からいじめられ続けるだめゆき。
 彼は「ブルース・リーって、力が強ければ弱い者いじめをしてもいいって教えてるの!?」。と泣き叫ぶが、あの当時、いじめに逢っていた少年たちはみな、そう思っていたことだろう。私もそうだ(笑)。

 もちろん、ブルース・リーの映画は普通のヒーローものであり、いじめ助長の意図などは何もないのだが、月光仮面のマネをして高所から飛び降りて怪我をする子どもが続出した(とされるが本当かどうかは疑わしい)昔から、精神的に未熟な少年たちにとっては、ドラマの背景に流れるテーマとか思想とかいうものは自分に無関係な夾雑物に過ぎないのだ。それが「現実」というものである。

 この物語が「甘い」のは、そうしたいじめの冷徹な現実を描いていながら、それでもだめゆきにリーへの憧れを捨てさせなかった点である。
 ブルース・リーの時代を知らない世代にとっては、だめゆきがそこまで心情を吐露していながら、なぜリーのあとを継ぐような行動を取ろうとするのか、ピンと来ないのではなかろうか。それを納得させるだけの描写が不十分なのは、脚本がその時代のアイテムやキーワードを並べ立てるだけに終始し、だめゆきの精神的葛藤と時代との関わりを描ききれていないせいである。

 ブームというものは、「なぜそれがそのときそこまで流行ってしまったのか」、後の時代の人間には全く理解できないほどに「断絶」を生み出してしまうものである。天地真理がなぜ白雪姫とまで呼ばれ、一世を風靡できたのか、現代人に説明ができる人間がいるだろうか。
 ブルース・リーも同じである。通り一遍の説明では、あの大ブームの理由をとても納得はさせられないだろう。そのブームの陰で、さっさとこんなくだらんブームは過ぎ去ってほしいと願っていた少年たちもまた多数いたという事実も。

01月07日(日)
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