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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■実相寺昭雄氏、死去/映画『ヅラ刑事(ヅラデカ)』
多分、『ウルトラシリーズ』でも、いささか毛色の変わった作品ばかりを集めた総集編版ウルトラマン、『故郷は地球』(ジャミラ)や『空の贈り物』(スカイドン)、『怪獣墓場』(シーボーズ)などの回が、同じ監督の手になるものだと知ったころだから、10代の半ばくらいだろう。
正直、それらのエピソードは通常のイメージの怪獣ものとはあまりにイメージがかけ離れていて、当時の私にはつまらないとすら感じられていた。
もちろん、今見返せば、怪獣ものの衣装を借りた優れた風刺SFとして評価できるのだが、私は円谷一監督作品に代表される、もっぱら正統的な怪獣対決ものにのみ狂喜していたのである。
ただ重いだけでぶかこっうなスカイドンや、寂しくて地面を蹴ってすっころげるシーボーズなどは、怪獣の風上にも置けない失敗作としか思えなかった。
当時の実相寺作品で私が唯一好きだったと言えるのは、『ウルトラセブン』の『狙われた街』(メトロン星人)のみだろう。これは、ウルトラマンの生みの親、金城哲夫と実相寺昭雄が唯一組んだ作品である。
昨年の『ウルトラマンマックス』の「狙われない街」で、メトロン星人を再登場させたのは、実相寺さんの金城さんへのオマージュもあったのかもしれない。
結局、私が実相寺昭雄作品に目を開かされるのは、『怪奇大作戦』の再放送(本放送時は、やはり子どもだったのでコワくてマトモに見られなかった)を待つことになる。
『恐怖の電話』では初めて桜井浩子女史の美しさにクラクラし、『京都買います』では岸田森のペシミズムに酔い痴れた。
岸田森演じる牧史郎の持っているあの暗い影の正体は何なのだろう。
紫煙をくゆらせ、京都の街を彷徨する彼はその煙よりも実態がないように見える。
謎を追い、解き明かし、真実を追い求めながら、かの「探偵」は、まるで浮き草か幽霊のように街に翻弄されて、女の変貌した仏像に恐怖し、遁走する。
そうだ。彼は「遁走者」としてあの街の中にいたのだ。
牧史郎ばかりではない。
実相寺作品の登場人物たちは、誰も彼もが真実に向き合おうとしながら、どこか逃げ腰だ。『姑獲鳥の夏』の探偵たちは、京極堂も榎木津も関口も、恐らくは真相にとうに気付いていながら、その解決を導き出すのに不必要な手間ばかりをかける。
原作がもとからそうなのだとも言えるが、霞の中に漂うように屹立する久遠寺家の描写は、現実を映し出そうとする監督のそれではない。当然、徘徊する登場人物たちも、現実・真実に相対する存在としてそこにいるのだ。
ヘビースモーカーである実相寺監督は、その紫煙で我々を煙に巻くように、非現実で不条理な世界を描き続けていく。にもかかわらず、その世界で浮遊する人間たちは、非現実的でありながら極めて性的で生々しいのだ。
彼らはみな、自分の血が赤く熱いことを知っている。そしてその血の呪縛から逃れられないがゆえに、重苦しい「影」を背負わざるを得ない。
彼らの背負っている「影」は、彼らが生きている「街」に縛られ、その「街」から逃れようとし、逃れ切れずにもがいているがゆえにうまれてくるものなのだ。
後に実相寺作品が江戸川乱歩の世界に傾倒していくことになるのはごく自然な流れであったのかもしれない。探偵明智小五郎も、対峙する犯人たちも、さながら曼荼羅のように秩序と混沌を内包した「街」に精神を支配され翻弄された遁走者であったからである。
「犯罪」とは、『罪と罰』の例を挙げるまでもなく、この世界の不条理を、個人が咀嚼し超越することのできる唯一の手段だからだ。
そして、実相寺さんが常に仮装敵国として認識していたその「世界」は、その「街」とは、紛れもなく実相寺さんの生まれ故郷である「東京」であった。
その通り、実相寺作品は全て彼自身の『東京物語』なのである。
『京都買います』が京都を舞台にしていたのは、後の『帝都物語』へ至る伏線であったと言えよう。
東京はなぜ破壊されなければならなかったか。
東京が曼荼羅だからである。曼荼羅の持つ広大なエネルギーから、その呪縛から、開放されなければならなかったからである。
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11月30日(木)
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