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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■いじめを楽しむ人々/映画『アジアンタムブルー』
あの会見は、いくつもの間違いを犯したが、主だったものは次の三つだ。
1.いじめる子どもに対して、「大人はこの程度の対策しか取れない」と判断させてしまったこと。
「隠れていくらでもいじめはできるよ」と教えてしまったことになる。
2.イタズラ好きな連中に、世間を騒がせる手段を教えてしまったこと。
実際に、イタズラを行ったやつが逮捕されている。多分、小規模で報道されていないイタズラはかなりな数に上るだろう。愉快犯を増大させる危険を、あの大臣は考えていなかったのか?
3.実際にいじめられている子供たちに、絶望感を与えてしまったこと。
1.の裏返しだね。「大人には自分を助けてくれる能力がないのだ。文科大臣ですらも」ということを全国的に表明してしまった。これで自殺者が出ないはずがない。
文科大臣は、自分が「いいこと」をしたつもりか分からないが、いじめ事件はそれこそケース・バイ・ケースなので、対処するには細心の注意が必要だ。
それなのに、あんな大雑把なことをやられてしまっては、状況が悪化するのは目に見えているし、実際に悪化してしまった。
この責任は誰が取る?
けれども、大臣や文科省に対して、「あんたらが余計なお世話を焼いたせいだ」と追及する人間は誰もいない。
あの「責任追及大好き」なマスコミですら、だんまりを決め込んでいるのである。
表面的には「イイコト」をしているように見える連中に対しては、その矛盾を突くということを日本のマスコミは歴史上を殆どやってこなかった。
マスコミもまた、日本の教育を本気で憂えているのなら、あんな鈍感でデリカシーのない馬鹿大臣を叩いたってよかったはずだ。
それを一切しようとしなかったのは、なぜなのか。
理由は語るまでもないよねえ。
マスコミの誰も、本気で「いじめがなくなる」なんて考えてもいないからだ。
それどころか「いじめがなくなっちゃ記事が書けなくなるから困る」と本音じゃ思っているフシすらある。
いじめ対策なんて本当は取りようがない、そのことはもう一般人もみんな熟知している。
いじめた子どもを出席停止にする、あるいはそんなのは生ぬるいから退学処分にする、それで本当に歯止めができるのか疑問だ。
いじめの構造がそのクラスにまだ残っていた場合、今度はまた別の誰かがいじめる側に回る、それが「社会」の構造だということを、我々は本当は知っているのだ。
そのことからどうして目を背けて、みんな、キレイゴトだけを並べるのか?
「社会」というものは基本的に「タテ」の関係を作ることによってのみ維持される。
「平等社会」と言っても、それはスタートラインの立場が平等であるべきだと謳っているだけで、現実としては上下関係のない社会はありえない。
その「上下関係」は、必然的に「いじめ」を生むようになっているのだ。
仕事の命令を上司が部下に命じるのはいじめじゃないじゃないか、と仰る向きもあろう。しかしそれは社会がそれをいじめと認定していないだけで、構造的にはいじめ関係と何ら変わりはないのである。
もしも上司が「無理難題」を部下に押し付け、それを部下が「苦痛」に感じれば、これは立派ないじめになる。
要するにいじめは、加害者と被害者の心理的な問題だということだ。
ある集団が組織的に行動しようとする時、そこには自然発生的に上下関係が生まれる。
誰がリーダーとなり、誰が下っ端になるか、そこには様々な要因が存在するが、上に立つものと下に位置するものとの間で心理的な葛藤が存在しなければ、この関係はうまく行く。
しかし、ここに少しでもズレが生じれば、この関係は全て「いじめ関係」に転換されるのだ。
ちょっと考えればすぐに分かる。
ズレが生じない人間関係なんてありえない。
だから、程度の差はあれ、いじめがなくなることだって決してない。
ほんの些細な軽口が人を傷つけ、死に追いやることだってある。
「がんばれ」という激励の言葉だって苦痛に感じる人間がいる。
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11月25日(土)
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