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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■『イッセー尾形のつくり方2006in博多』ワークショップ」九日目/続・発表会本番! LOVE IS FOREVER(笑)
森田さんは芝居の完成度なんて、やはり気にしてはいない。
演劇の意義とは、芝居の出来不出来、役者の演技の上手下手などとは別のところにある。
これはそういう言葉である。
演劇を見て、好きか嫌いかで判断してしまう人間は、実は芸術の本質を何も見てはいない。客が面白がろうがつまらながろうが、何かをそこで感じ、考えることができる演劇が演劇なのである。
劇場を一歩出れば、また日常に返り、舞台上のことなどはきれいサッパリ忘れてしまう演劇に、何か意義らしいものがあるのだとすれば、そういうことなのではないだろうか。
9番、「貧乏神」は、例の貧乏神さん(ひどい呼び方だが、しげ。は更にひねって「死神さん」と呼んでいた。確かに見た目が髪も長くて「貞子」なのである)の出番がある。
ところが彼女は結局、1回目には間に合わず、そのときは「貧乏神」はそこにいる(という設定の)犬の名前であった。
2回目、彼女がようやく到着し、犬の名前は「アントニオ」に変更された(もっとも犬の名前は家族が勝手に呼んでおり、祖母と孫は「ラッキー」と呼んでいるのである)。
そして、貧乏神さんは、「本物の貧乏神」として、妻にしか見えない存在として舞台に立つことになった。
貧乏神さんは、たわいのない世間話を延々と妻役の人に話し続ける。
夫役は、前回の北九州公演で、しげ。の夫役を演じた「草莽の志士」さんだ。
志士さんは、自分には見えない貧乏神に向かって、声をかける。壊れた妻をどうにかしたいと声をかける。しかし貧乏神は無意味な井戸端会議を続けるだけで、妻もまた殆ど無言である。
前では祖母と孫がアントニオと遊んでいる。
この家族は壊れている。
しかし、壊れてはいるが離れてはいない。
壊れているのに、彼らは一緒にいるのだ。そういう家族のあり方もあるのだ。
志士さんが語る。志士さんは、もう妻に声をかけることはできなくなっていいる。だから、見えない貧乏神に声をかけるしかなくなっているのだ。
「貧乏神さんよ、俺にはお前さんが見えないけどよ、心の声は届いてるよな」
気がつくと、私は、目頭が熱くなるのを感じていた。
イッセーさんがこの家族に「奥さんを社宅祭の女相撲に」と絡んでくる。
壊れた妻はあっさりとこれを引き受け、夫も行事をやると言い出す。やれることがあるなら何でもやる、といった雰囲気が流れる。もちろん、それは観客である私が勝手に感じていることで、舞台上の人々は即興で適当なことを会話しているに過ぎない。
けれども、「そう感じる」ことが大切なことだと、私にはもう分かっている。
イッセーさんが、ここで、「大失敗」した。
貧乏神に「そちらのおきれいな方」と声をかけたのだ。
イッセーさんは、1回目と設定が変わっていることに気付いていなかった。
志士さんが、すかさず「見えるんですか?」と畳み掛けた。
イッセーさんは慌てて「あ、見えない見えない!」と言って退場した。
会場が笑いに包まれる。
失敗ではあるが、逆にこれで落ちが付いた。
イッセーさんは自分のミスを見事に利用したのだ。
交流会でイッセーさんは、「あれ、幽霊だったんですねえ」と笑われていたが、何があっても、「とっさ力」で演劇は成立するのだということを証明したような瞬間だった。
貧乏神さんは、公演のあと、これ以上はない、という笑顔になり、今や弁天様に変貌していた。
森田さんに「貧乏神」呼ばわりされていた時の彼女は、確かにそのようにしか見えなかったのだが、今、改めて見ると、顔立ちの整った紛れもない“べっぴんさん”である。
北九州の時もそうだったが、女性の方はみなさん、ワークショップを終えたあと、泣いたり苦しんだりした人ほど、美しくなっている。
あきこさん、じり子さん、なつさん、眞夢さん、Lisaさん、yucaさん、今だから言えることだが、実はワークショップの最中は、私は殆どたいした印象を持っていなかったのだ。
それは私だけではない。
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11月18日(土)
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