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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■だからいつまで言葉狩りを続けるのか/『怪獣の家』1・2巻(星里もちる)
 しかし、これは結局、「臭いものにフタ」式の、目の前にある差別から目を逸らすだけの行為に過ぎない。そんなことをしたって、現実の差別をなくすことに何ら寄与しないことは、これまでの歴史が証明している。差別の実態は表面化されにくくなり、地下に潜ってしまった。陰で泣く人間を増やしただけである。それでもこんな阿呆な自主規制とやらが延々と続いているのはなぜなのだろうか。出版社か、映画会社が、マス・メディアが、現実逃避を奨励するような姑息な手段で、本気で差別をなくすことができるなどと考えているとすれば、これは相当におめでたい話だ。
 断定するが、彼らはみな、本当は「コトナカレ」で問題から逃げているだけなのである。
 こういう「言葉狩り」が頻繁になって以来、いじめや差別はすっかり陰湿化してしまったと感じるのは私だけではないはずだ。私はキチガイもメクラもツンボもビッコもこの日記の中で平然と使っているが、これを差別というのなら、メクラになりかけている私は自分で自分を差別していることになるが、それについて「自称差別反対主義者」は何と反論してくれるのだろうね。


 マンガ、星里もちる『怪獣の家』1・2巻(完結/小学館)。
 心に傷を持った主人公が、かわいい女の子二人とひょんなことから同居することになって……という、またありきたりな男の子癒し系妄想ラブコメかい、という設定だけれども、ちょっと趣向に凝っているのは、その二人の女の子が同居することになった理由というのが、どちらも「怪獣」絡みだということ。
 タイトルにある通り、旅行会社勤務の主人公・福田智則の住む家が、雷映怪獣映画『ガルル対メカガルシャ』の舞台モデルとして選ばれる。そのことを知った怪獣マニアの女の子・湯浅小雨と、映画のヒロインで役になりきりたい金子由希の二人が、同時に福田に「この家に住まわせてください」と頼み込んでくるのだ。
 そんな設定ありえねーだろ、なんて突っ込みたい人も多かろうが、そんな批判は作者はとっくに想定ないだろう。このマンガは、怪獣ファンであると同時にラブコメファンでもある作者にとっては、たとえどんなに「リアリティがない」と批判されようが、「描きたくて描いた」のだろうということが読んでいてひしひしと伝わってくるのだ。
 ネットで検索してもこのことに触れている記事がすごく少ないのだが、登場人物の名前、殆ど特撮怪獣映画の関係者の名字から取られている。福田(純。『ゴジラの息子』ほか監督)、金子(修介。平成『ガメラ』シリーズ監督)、湯浅(憲明。昭和『ガメラ』シリーズ監督)、中野(昭慶。『ゴジラ(1984)』ほか特技監督)、樋口(真嗣。平成『ガメラ』シリーズ特技監督)と言った具合だ。あと、油谷監督は当然「円谷英二」のモジリだろう。更には福田がコンダクターとして出かけて行く観光地が、怪獣映画の舞台に使われた阿蘇山のカルデラ(『空の大怪獣ラドン』)だったり、京都駅(『ガメラ3』)だったりと、あちこちに怪獣ファンが喜びそうな「遊び」が随所に盛り込まれている。
 もう、これだけで怪獣ファンはナカミは気にしないで買っちゃいなさい。マンガ内映画『ガルル対メカガルシャ』の内容が山田太一の『岸辺のアルバム』のまんまパクリなのは気にしないでね(これも星里さんがファンであることを公言している)。

 まあ、こんなオタク向けなことを書いたところで、マンガ自体が面白いかどうか分かんなきゃ意味ないじゃん、ということは分かっちゃいるんだが、ついそういうことを書きたくなるのが怪獣ファンのサガなんである。
 初め少年向け元気ラブコメ『危険がウォーキング』で出発した星里マンガは、『りびんぐゲーム』で青年マンガに進出して以来、だんだんとシリアスな設定を加えていき、『本気のしるし』では登場人物が殆どみんな人格崩壊起こすんじゃないかってギリギリの線まで人間関係を突き詰めるに至った。どういうわけかラブコメで出発してと゜シリアスな方向に進んでしまうマンガ家さんって、柳沢きみおとか六田登とか多い。なんか、絵空事を描くことに欺瞞を感じるようになるんだろうか。だとしたらそのうち赤松健もシリアスな……(ならんならん)。

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01月11日(水)
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