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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■まだまだ書き足りないが/舞台『屋根の上のヴァイオリン弾き』
 メールのチェックなどをするが、正月早々からスパムも何件か。以前に比べればかなり減ってはいるけれど、鬱陶しいことは鬱陶しい。テレビを点けると、下関駅が74歳のジイサンに放火されたとのニュース。放火未遂の前歴があり出所したばかり、「腹が減ってムシャクシャしたので火をつけた」という、イカレてることがハッキリ分かる例。だから刑務所放り込まれてる時点で、こいつは外に出したらなんかまたやるって分かるだろう。いくら刑務所が満杯だからって、簡単に外に出しすぎだ。
 江戸の昔なら火付けは死罪だったんだが、どうして今はこんなに刑が軽くなったかね。一歩間違えれば何十人と人死にが出る危険があるんだから、これって立派な殺人未遂ではないの。どうせ老い先短いジジイなんだし、看守が黙ってりゃバレないからこっそり首締めとこうよ。90になっても絶対またやるぞ、このジジイ。



 夕方から、博多座で舞台『屋根の上のヴァイオリン弾き』。
 テヴィエ役は市村正親。アニメファンには『ジャックと豆の木』のジャック役で有名。ってそこから入るか(笑)。最近では『砂の器』で妙に芝居の濃い劇団主宰者役を演じていたが、一般的には当代随一のミュージカル役者として評判の高いこの人の演技、私はあまり買ってはいない。『探偵スルース』や『デモクラシー』といったストレート・プレイでは、その口跡の明確さや派手な仕草がかえって災いして、どうしても芝居が不自然に見えてしまっていた。ミュージカルならばそういった欠点は目立たないかと思って今回の舞台はかなり期待して見に行ったのだったが、やはり「臭さ」が先に立ってしまっている。結局、この人を「演技派」と呼ぶのは間違いだろう、という印象をまたまた強くしてしまったのであった。
 困ったことに、私は、1986年、森繁久彌がテヴィエを演じた全盛期の『屋根の上のバイオリン弾き』(「ヴァイオリン」は「バイオリン」だったのだね)を帝国劇場で見ている。「翻訳劇の日本化に最も成功した例」と評された初代版と比較されれば、分が悪いのは必然である。市村正親も決して手を抜いているわけではないのだろうが、森繁のあの「絶妙の間」には遠く及ばない。去り際に妻ゴールデに向かって「クソババア」と小声で捨て台詞を残して逃げて行くタイミングとセリフの速さ、これが市村は森繁よりも0.5秒ほど遅い。しかしこのほんの遅れが「命取り」になる。
 森繁版では帝国劇場内は大爆笑の渦に包まれていたが、市村版は「そこそこの笑い」しか生まれてはいない。それは殆ど役者陣の「間の悪さ」に起因している。森繁版『屋根』が成功したのは、この芝居に従来のいわゆる「翻訳劇臭さ」が感じられなかったおかげなのだが、それは森繁以下の役者陣が、浅草軽演劇の俗っぽいくらいの「間」を導入し、この「外国劇」をあたかも戦前からの人情喜劇のように「見せかけ」て、「日本化」することに成功していたからである。「ホームドラマ的な要素が強調されたため」と評する演劇評論家は多いが、それもやはりこの「下町的な間」が生み出した効果なのだ。これがなければ、翻訳劇によく見られる「わざとらしさ」ばかりが目立つのも当然である。
 更に言えば、ラビ役を演じた益田喜頓の不在、これはあまりにも大きい。今回、ラビを演じているのは青山達三という人だが、笑いが取れるべきところで殆ど客を笑わせることができなかった。間が悪いのみならず、セリフの解釈を殆ど間違えまくっていたからである。のほほんとした口調ですっかりボケているのではないかと見せかけて、村人たちに離村の決意を促す要となるセリフのみは重厚かつ理性的に語るあの緩急の妙、これは他の俳優にはちょっと無理である。今思い返せば、森繁版は益田さんのために「見せ場」を増やしてさえいた。
 まあ、役者たちも演出家も、「翻訳劇の日本化」などには全く気を配ってはいなかったのだろう、ということは見当が付く。それは、メインテーマである『陽は上りまた沈む』が、森繁版では日本語歌詞で歌われていたものが、原タイトルどおり『サンライズ・サンセット』と「英語に戻されていた」からである。しかしそうなると、この物語は所詮は我々とは縁もゆかりもない「ユダヤ人の物語」でしかなくなり、登場人物たちに感情移入することが困難になってくる。

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01月07日(土)
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