ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491657hit]
■人はいかにして欺かれるか/ドラマ『相棒』〜シーズンW〜スタートスペシャル「閣下の城」
どうして作者はそんなことをしたのか? 当たり前の話だが、「現実」の事件は、フィクションであるミステリのように、全てがキッチリ割り切れるものではないからである。「真実が一つ」なんてミステリは、実は小説としては凄くつまんないのだ。読者が「あのオチの意味は?」と様々な解釈を考えるのは勝手だが、それがいつのまにか小説内での「神様の実在」を信じ、「神様の意図を量ろうとする」ことになっていることに大半の読者が気付いていない。読者が、芳雄の心理の過程をそのまま読者もなぞってしまっているということは、そういう読者もまた、「鈴木君」の手にかかれは、簡単に理性を放棄させられてしまう人間だということになるのだ。
芳雄は、鈴木君が神様であることを否定し、なぜ彼がそれだけ真実を見通せるのかを推理し、鈴木君の「仕掛け」もちゃんと見抜いていた。なのに、結局、「神様はいるのだ」という「信仰」に辿りついてしまう。だから、もはやラストの芳雄君の描写には、客観的な意味を見出せなくなってしまう。あれが現実の出来事なのか、そうでないのか、それすらも信用できなくなってしまっているのだ。
しかし、どうして芳雄君はそんな状況にまで陥ってしまったのか。芳雄君の心理の過程を丹念に追って行けば、彼が「神」にすがらなければならなくなった理由は充分に納得できる。芳雄君は孤独だった。彼には友達も、大人も、親ですらも信じられなくなってしまっていた。全てが信用できなくなってしまった芳雄君には、鈴木君以外に信じられるものがなくなってしまっていたのだ。そして、「知らなくてもいいことまで全て芳雄君に教えて、芳雄君をそういう心理状態に追い込んだのは鈴木君である」。だから、鈴木君が神様であろうとあるまいと、彼が芳雄君の心に陥穽を作り上げ、そこにうまくつけこんだことだけは紛れもない事実なのである。
『神様ゲーム』を仔細に読めば、「鈴木君」の手口が、他人を信用させるための典型であることに気が付くはずだ。芳雄はその手にコロリと騙された。こうなると、先述した通り、「鈴木君が本当に神様かどうか」ということはどうでもよくなる。芳雄の心の中では、完全に鈴木君は「神様」になってしまった。だから、最後に「鈴木君が神様であることを否定するような」意外な出来事が起こっても、「神様のやることは絶対」と、その事実について分析することを放棄してしまうのである。まるで、論理の徒であったコナン・ドイルが神秘家に変貌してしまったように。さながらオウム信者のように。
言い換えるなら、『神様ゲーム』を読んで、最後まで「鈴木君が神様かどうか分からなかった」あるいは「鈴木君はやっぱり神様なんだと思った」人というのは、人の口車に乗せられやすいお人好しか、ニセ科学やトンデモ本の類に簡単にはまっちゃうような純粋まっすぐ君か、それこそカミサマを信じているシューキョーの人であろう。タイトルにちゃんと『ゲーム』と書いてあるのに、それは信じないのが不思議だけどね。
でもまあ、世間ってのはそういう「騙される側の人」がいないと成り立たないものだから、この本に関して否定的な意見が多いってことは、それだけ「善人」が多いってことでもある。善人だらけの世界も鬱陶しいんだが、悪人が多いよりゃあマシかもしれない。
実際、「鈴木君」のような「カミサマ」は、現実にいたるところにいるのだ。宗教の勧誘だけに留まらない、言葉巧みに信用を取り付け、ツボを売りつけたり土地を売りつけたり、詐欺を仕掛けてくる人間はそこいらじゅうにウヨウヨいる。ちょっとした寸借詐欺なら、身内でも友人でもしょっちゅうやっている(うちの家族も昔からずっとお互いに詐欺をしあっているようなものである)。グータロウ君のような善人には予想もつかないことかもしれないが、信用できる人間なんて、この世にはただの一人もいないのである。
グータロウ君が善人なのはもう身に染みるほどに感じていることなので、実際どうして私のような悪辣で人情のカケラもないペテン師と友達でいられるのか不思議なのだが、もう日記の感想、善人丸出しで「子供に読ませるのにふさわしくない」とか、本読みが絶対言っちゃいけない言葉を簡単に言っちゃっている。
[5]続きを読む
10月12日(水)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る