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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■トラノアナ潜入記/舞台『弟の戦争 GULF(ガルフ)』
主人公のトムには、子供のころ、「フィギス」という名の想像上の友達を作って遊んでいた。彼が三歳のときに、弟・アンディーが生まれる。ところがトムは、弟のことを「フィギス」と呼び、自分の前では常に「フィギス」として振る舞うように強要する。
アンディーは優しい子で、兄のトムの言うことは何でも聞いた。しかしそのうち、トムはアンディーに奇妙な能力が備わっていることに気付く。精神感応。彼には人の心を読み取り、遠く離れた外国の人々と交信することさえできたのだ。見たこともない呪術師の名前を言い当てる。飢えた難民の子どもの写真を見て「助けてやって」と叫ぶ。建築家の父も、市会議員の母親も、そんなアンディーを少しばかり持て余し気味であったが、トムはアンディーがだんだんと「深み」にはまっていくのを面白がって見ていた。
しかし、そうしているうちにトムが15歳、アンディーが12歳になったとき、弟は「あちら側」に行ったきりになってしまった。彼はアラビア語しか話さなくなった。自分の名は「ラティーフ」だと言った。そして、彼は戦場の塹壕の中にいた。現実世界でも、海の向こうで戦争は始まっていた……。
圧倒されたのはまず舞台装置である。
演劇の成否は、まず舞台美術が単なる置物ではなく「演劇」を志向しているかどうかに懸かっていると言ってもいいが、これは最上の舞台と言ってもいい。
建築中のビルの鉄骨、これが中央を取り巻く壁のように組み立てられ、移動し、あるときはこれが家に、あるときは病院に、あるときは戦場に見立てられる。
工事の騒音は戦場の爆音にシンクロし、ラグビーの試合は戦場の戦いに見立てられる。しかしそれはただの見立てではない。科学が兵器を作りだし、闘争心が諍いを生んだ事実を象徴する演劇的寓意である。
演出の鐘下さんの主張はこうである。「知識としての戦争を理解するためのドラマではなく、経験として戦争を実感していくドラマ」、それを作り出すこと。そのためには、舞台上に二つの「機能」を持ったものを配置することが必要だった。
一つはもちろん、アンディーでありフィギスでありラティーフである「弟」である。
トムのいる世界は平和なこの国である。戦争の陰はどこにも見えない。テレビからは始終戦争の映像が流れてくるが(実際に舞台には無数のテレビが置かれている)、スイッチを消せば、戦争は目の前から消えてなくなる。戦争はいつだって他人事で、対岸の火事で、よその国で誰が何人死のうと関係なんかない。そうほざいて仮に誰かの叱責を買ったとしても、少しも痛痒を感じはしない。我々は、もう長いこと、戦争を自覚せずにすむ世界に住んでいるのだ。
「戦争をなくしてくれよ!」と糾弾された母は、文字通りテレビのスイッチを切るという行動に出る。そしてこうも言うのだ。「私たちに何ができるって言うの?」。
まさしくその通りだ。誰にも戦争を止めることなどできない。政治家にも、学者にも、軍人にも、もちろん庶民にも。我々が戦争を知らずに来られたのは、そして、海の向こうの人たちが戦争に巻き込まれてしまったのは、ただ生まれた国が違っていたという「運」の問題でしかないのだ。
怖いのはこれからだ。目の前の弟が、現実に戦争を体験していても、誰も彼を救うことはできない。彼は、精神感応という能力を持ってしまったばかりに(そしてそれをおもちゃにした兄のせいで)、現実の戦争を体験することになってしまった。けれども、もしその能力が「兄である自分の方に発動していたら」?
もっと端的に言えば、アンディーの存在は、もし、自分が「あの国に生まれていたら?」という問いかけを観客一人一人に問いかけているのである。知恵も、勇気も、努力も、何の役にも立たない。人間の営為が全て否定される世界に生まれるも生まれないも、それは全て「運」なのである。こんな「不公平」があるだろうか?
そしてもう一つの戦争を実感するための「機能」、それが檻のような鉄骨の装置である。
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08月25日(木)
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