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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■「優勝」の意味はどこに帰属するのか/『アニメーション監督 原恵一』(浜野保樹編)
 高校野球における「優勝」とは、野球部員個々人の努力だけに与えられるものではない。それぞれの学校の「教育の成果」に与えられるものである。部活動が教育の一環であることを忘れてはならない。「不祥事にはほっかむり」なんて学校の姿勢を評価できるわけはないではないか。教育の本分を考えるならば(特に明徳義塾が出場辞退をしている状況を鑑みるならば)、「優勝取り消し」が最も妥当な裁断である。優勝旗を苫小牧高校に与えたままにしておくなら、実質、学校に責任を取らせることを完全免除したも同然である。
 もし「優勝取り消し」となれば、野球部員たちは悔し涙に暮れるだろうが、結局は部長の暴力を看過した部員たちにも責任のあることだ。これは泣いて頂くしか仕方のないことなのである。ちょっと考えてみれば、部長の暴力行為を他の部員たちが知らなかったはずがない。「優勝しちまえば、そんなに簡単に処分なんかできないだろう」と部員たちが高を括っていなかったとどうして言えるだろうか。
 そうは言っても、高野連は、結局は世論に流されて(昔から世間は他の部活動には冷淡だが、高校野球にだけは甘い)、既に部長が処分されたことでそれ以上の追求はしないような気がしてならない。本来これは、事実を隠蔽しようとした校長が自ら引責辞任をしてしかるべき事態なのである。しかしその権限は高野連にはない。高野連にやれることは一つしかないのだ。
 高野連が本気で高校野球界から暴力を追放しようと考えているのなら、この際、大鉈を振るうべきだと思うが、そんな度胸はあるまいね。だって高野連の連中自身が、これまで「そういうこと」を平然とやってきたやつらだろうから。既に「明徳義塾とは事情が違う」と、処分を流すための伏線も敷いているのである。
 しかしここでハッキリと断言しておくが、これで処分が軽いものですんでしまえば、もう高校野球界では「バレなきゃいい」が常識化するぞ(まあ、もうなってるから、苫小牧も緘口令を布いてたんだろうがね)。そこまで考えずに平然と高野連に情状酌量を嘆願する連中は、全くのお天気野郎なのである。


 浜野保樹編『アニメーション監督 原恵一』(晶文社)。
 十年前ならばいざ知らず、もはや「原恵一」の名前を知らないアニメファンは、アニメファンの名に値しないだろう。
 分かっている人にはもう充分分かりすぎていることであるが、宮崎駿、富野由悠季、押井守、大友克洋、庵野秀明、今敏、etc.世界にその名を知られたアニメーション監督たちに比しても、原監督の演出力は一頭地を抜いている。
 『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』が公開されたとき、『キネマ旬報』の映画評論家諸氏は殆どこの傑作を無視したが、数年後、「アニメーション・オールタイムベストテン」を選出したときには、ベストテンの上位にランクインされていた。プロの評論家と称する半可通はいつだってこんなもので、自分の目で本当に面白いものを見抜く目を持たない。常に他人の批評を気にし、評判が高いと知ると誉めそやし、不評が多いと口汚くののしる。いつだって他人の尻馬に乗るばかりだ。そんな批評に関係なく、『オトナ帝国』(それ以前の『クレヨンしんちゃん』映画もそうだが)を評価し得たことは、「シロウト」である私の誇りである。
 後追いで「しんちゃん映画」に出会った人たちは、「『クレヨンしんちゃん』なのに」、という表現をよく使っていた。『クレヨンしんちゃん』をよく見もしないで馬鹿にする連中がやたらいたころだから、そういう無遠慮な言葉遣いにもあまり目くじらを立てないで看過するようにはしていたが、本当は『クレヨンしんちゃん』だからこそ、あれだけの傑作が作れたのである。「なのに」なんてふざけんじゃねえ、だ。

 本書の編者である浜野氏もそんな「後追い」の人なのだが、自らの不明を恥じてなのだろう、まるで汚名返上とばかりに原監督の旧作を片っ端から見返し、「原恵一」をどこまでフィーチャーできるかというコンセプトのこんな大部の本を作ってしまった。

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08月22日(月)
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