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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■終わらない歌を歌おう/映画『リンダ リンダ リンダ』
彼らはみな、仲がいいような、けれどもそれほど親密でもないような、微妙な関係にある。実際に、高校時代の友達関係なんて、この程度の「擬似友人」みたいなものが殆どではなかろうか。実のところ、本映画中で語られるとおり、喧嘩をしている恵と凛子の方が、「魂」は近かったりするのだ。似たような性格の者同士が反発してしまうのも現実によくある話である。
これらの設定は、物語の後半になるにつれ、じわじわと「効いて」くることになる。それは、彼女たちが演奏曲に「ブルーハーツを選ぶ」という「リアルさ」において、この映画の成否が決定してしまったと言ってよいほどの効果を生むことになるのだ。
ブルーハーツをやる、と言い張る恵に、凛子が「やって意味あるのかな?」と疑問を呈する。これは「ブルーハーツが嫌い」というよりも、「コピーバンドに意味があるのか?」という問いかけだろう。
ところがこれに恵は「別に意味なんかないよ」と返事する。意地っ張りでそう言っただけだろうが、「意味がなくてもバンドする」というこの姿勢もまた実にリアルだ。言っちゃなんだが、高校生なんてみんな馬鹿である。しかしこれは単純なワルクチではない。馬鹿が取り得のようなもので、馬鹿だから何も考えずにやりたいことをやれるし、意味なんてなくても気にならない。無茶も無謀もし放題である。そこにあるのは「熱さ」と「勢い」だけだが、それで全然構わないのだ。
しかも選曲があの「ブルーハーツ」だ。
ブルーハーツは、本人たちが歌ってるのを見ると、これはもうただの不良ソングで、これにハマるやつらもたいていはただのヤンキーだ。
ところが、そんなブルーハーツを誰かがカバーすると、これが不思議なことに俄然「いい曲」になってしまうのである。オリジナルは耳障りな雑音のようにすら思えるのに、他の歌手が歌うと、あるときは勇気凛々、あるときは哀切、またあるときは狂おしいほどの人間賛美、様々な「顔」を見せることになる。
かく言う私も、カラオケでしげが『TRAIN TRAIN』を歌ってるのを聞いて、「あれ? これってこんなにいい曲だったっけ?」と驚いたことがあるのだ。
「終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため
終わらない歌を歌おう 全てのクズどものために」
ブルーハーツが歌うっているのを聞いていても、このフレーズはナルシスティックにしか聞こえない。世界を勝手に「クソッタレ」なんて決め付けるな、「クズ」って俺たちのことを言いたいのか、ふざけるな、クズなのはお前らだけだ、傲慢なこと言ってやがるんじゃねえ、と、反感すら抱いてしまうのだが、ひとたびブルーハーツの手を離れると、そんな歌い手の自己陶酔的なムードがきれいサッパリと消えてしまうのである。「クズども」は我々を貶める言葉ではなくなり、全世界に広がって「みんなクズでいいじゃないか、みんなのために歌おう」と、我々の歌のように聞こえてしまうのである。
これはいったい何なんだ、私の錯覚か、と思っていたのだが、パンフレットで、この映画のプロデューサーがこんな発言をしているのを読んで、ああ、これは私だけの感覚ではなかったのだと合点が入った。「魅力的なカバーは、下手なオリジナルよりインパクトがある」「文化祭ライブで『リンダリンダ』をやると異常に盛り上がるとはリアルな実話であったし、ブルーハーツならば、急遽2、3日でコピーできたとしても全然変じゃない」
要するにブルーハーツはヘタなのである。たいした音楽ではないし、たいした曲でもない。しかし、「熱さ」と「勢い」だけはあって、才能も目的も意志も持ち合わせてはいないけれども、何か心の中にわだかまりだけはある我々クズにとっては、これはまさにドンピシャのソウル・ソングになりうるのだ。
劇中では誰の曲を歌うかで恵と響子が頭を悩ませるシーンがあるのだが、そのときに名前を挙げられた歌手たちが、ジュディマリ、椎名林檎、デリコ、パフィー、ユニコーンなどである。ブルーハーツが選ばれたのも実にリアルな選択であったということがご理解いただけるだろうか。
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08月21日(日)
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