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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■映画が「見られる」ことの意味/水野晴郎トーク・ショー&映画『シベリア超特急5』
映画を見れば一発で分かるのだ。スタッフもキャストも、水野晴郎氏を愛している。
毎回、話は殆ど同じだ。水野晴郎氏扮する山下奉文大将がヨーロッパ視察のためにシベリア超特急に乗る。そこで謎の殺人事件が起こる。それは山下大将の名推理によって解決するが、そこには戦争の悲劇が横たわっている。山下大将はひとしきり「戦争はいかん」と言って終わる。そのあとに、「意味のないどんでん返し」が待っている。当然、今回もそんな話だ。
殆ど同じ話を繰り返していながら、誰も水野氏を止めないのは、これはもう「愛」以外の何物でもないだろう。一作目を見たときには破綻したストーリー、トリックとも言えないトリック、意味不明の展開、無駄なアクション、殆ど直感でしかない名推理、不必要な懐かしの名画へのオマージュ、何より水野氏の素の演技に眩暈すら起こし、唖然として怒りもしたのだが、もう六作も作っちまった現在(舞台版の『7』が既に作られている)、映画としてどうこうなんてことを突っ込むのはかえって野暮というものである。
一作目でもうおなかいっぱい、というお方は2作目以降を見る必要はないかもしれない。しかし、一度ハマッてしまえば、たとえ同じことの繰り返しだと分かっていようとも、中毒のように二作目、三作目と見たくて仕方がなくなる。スタッフ・キャストの「愛」に観客も包まれてしまうのだ。だから、取ってつけたような「戦争はたくさんの人を不幸にする」という反戦メッセージも、ここまで続けて念を押されれば、もうその通りだと頷くしかなくなってしまうのである。
本編もものすごいものであったが、トークショーもすごかった。と言うか、「トークショーで予め内容を聞いておかないと、本編がますます分けが分からない」のである。例えば、「冒頭の長回しのシーンで、大陸浪人たちの向かいで顔を見せずに手袋をつけている人物がいますが、これが真犯人です」なんて説明したりする。しかし、そのことを聞いていないと、本編中では実はそいつが犯人であったという説明は一切ないので、「あの人物はなんだったんだ?」という疑問が観客の心の中にわだかまったまま映画を見終えることになる。多分、これは編集で「説明カット」を入れるのを忘れてしまったのだ。
「見所は万里の長城での『階段落ち』です。ロシアのエイゼンシュタインが『戦艦ポチョムキン』でやって、『アンタッチャブル』でマネされましたけど、プライアン・デ・パルマ何するものぞですね」と意気軒昂に語られるので、実際に本編を見てみると、これがまたとんでもなかった。「シベリア超特急から吹っ飛ばされた主人公が、万里の長城の上に偶然あった荷車の上に落ち、そのまま延々とジェットコースターのように階段落ちしていって、勢いがついて更に跳ね飛ばされ、超特急の終点である満洲里まで辿りつく」のである。「エイゼンシュタインのマネがしたかっただけだ」ということを事前に聞いておかないと、画面を見ていて何が起こったのか理解不能に陥る人も多数であろう。
この映画のすごいところを列挙して行けば本当にキリがないので、このへんにしておくが、往年の映画をあまりご覧になってない方や、ミステリーにあまり慣れてない方は、そういうシュミの方と一緒にご覧になって、どこがどうおかしいか、説明してもらうのがよいかと思う。
上映後のサイン会で、「鏡のシーンは『市民ケーン』ですか?」と水野さんに伺ったところ、「そうです、さすがよくお分かりになりましたね」と仰ってニッコリされたあと、聞いてもいないのに「あのシーンはラナ・ターナーの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』で、あのシーンはローレン・バコールの『脱出』で、あのシーンはマレーネ・ディートリッヒの『嘆きの天使』で」と、どんどん解説してくださった。
正直な話、水野さんの映画評論は大したことがないと長年思ってはいたのだが、こんなに映画を愛している人には滅多に出会えるものではない。これはウソでも何でもなく、本当に何十作でも『シベリア超特急』を作って頂きたいと、心の底から思ったのである。
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08月19日(金)
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