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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■「思想」がらみで映画を見るな/映画『亡国のイージス』
 小説が、読者に提供しなければならない情報を「説明」しなければならないのは「文章」の特性として当然なことなのだが、映画は基本的に「映像」なのだから、情報は映像中にモノとして映し込むことしかできない。「説明」することなどはそもそも不可能なのである。従って、映像に描かれたものを情報として還元、あるいは補完するのは、観客の洞察力、想像力に任されている。
 言い換えれば、映画を見てすぐに「分かんない」と文句を付けるやつは、単に自分の無知、無教養、理解力の欠如を告白しているに過ぎないことになる。原作小説を読んでいて「説明不足」とほざくやつはメディアの違いを理解していない知ったかぶりの阿呆なのだ。「分からなくても、説明不足な部分はあっても面白い」ことがなぜ認められないのか、先入観や偏見で映画を見ているからどうしてもそうなってしまう。
 『妖怪大戦争』もそうだったが、ネットでの感想を見ると、この「先入観による読み間違い」があきれるほどに続出している。例えば問題になっている「思想」というやつだが、確かに事件の発端となる宮津副長の息子の論文は随所に引用され、日本が「亡国」と化している状況を痛烈に批判してはいる。ヨンファもまた、「まだ日本人は気が付かないのか」と、その平和ボケぶりを嘲笑する。
 しかし一方では「怠惰な平和」のどこが悪いかとの反論も内調の瀬戸(岸部一徳)によってなされているし、たとえ日本政府の対外政策がふがいなかろうが、それがテロリストの暴挙を正当化していいわけではないことは、まさに仙石の「いそかぜ}奪還行動によって示されている。これを単純に再軍備を奨励しているとか、過去の歴史を反省していないとか、決め付けるやつに言ってやりたいのだが、ではテロに対して唯々諾々と従って、無策でいることがいいとでも言いたいのか、ということだ。仙石は別に「思想」で行動しているではない。ちゃんと映画の中でこう言っているではないか。「これは『任務』だ」と。
 映画が「物語」である以上、そこに登場する人物には大なり小なり必ず何らかの「思想」(行動原理、動機と言ってもいい)が存在する。「桃太郎」が何となく鬼退治をやらかしたり、「シンデレラ」が意味もなく舞踏会に現れたら、ドラマは破綻してしまう。登場人物それぞれの思想が交錯し葛藤が生まれ、複雑な事情が絡み合うことでドラマは成立する。思想はあくまでそのための素材に過ぎないのだ。
 仙石や如月の行動は、あくまで「任務」である。即ち、時代が違い、国が違い、立場が違えば、その「思想」も「任務」も変わるということだ。「思想」が全てに優先される絶対的なものだという見方が一般に支配的になれば、結局は「思想統制」が行われるだけだ。自らの職能に基づいた「任務」に徹することが、思想による洗脳やファシズムを打破する唯一の方法なのである。

 『ローレライ』でも『戦国自衛隊1549』でも、登場人物の何人かに語らせていたように、原作者の福井晴敏自身が安穏とした日本の現状に危惧を描いていることは事実であると思われる。まあ別に福井晴敏に説教されなくても、どうしてここまで日本人は自国民としての誇りを無くし、戦争を対岸の火事としてしか見られなくなってしまったのか、ということを憂えている人は多いだろう。
 しかし、福井作品に登場しているその「思想」の持ち主は、『ローレライ』では浅倉大佐(堤真一)であり、『戦国』では的場毅(鹿賀丈史)であり、本作では宮津隆史及びその父の弘隆(寺尾聰)である。つまりどの作品でも彼らはみな「クーデターの実行犯」として設定されており、最後にそのクーデターが「必ず失敗する」点に注意しなければならないのだ。
 福井作品は全部『機動警察パトレイバー2』だなあと言ったのはまさにこの点にある。彼らはみな柘植行人(根津甚八)の子供たちであるが、一点だけ違っているのは、柘植がクーデターに失敗してもなお「この国の未来を見たい」と呟き、「果たして本当にこの国に未来などがありえるのか」という痛切な問題提起を観客である我々に突きつけたのに対し、福井作品の首謀者たちはいともあっさりと後腐れもなく物語から退場してしまう。

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08月08日(月)
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