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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■日本人の「常識」/映画『妖怪大戦争』
確かに映画のセオリー、ドラマツルギーを考えた場合、あえて定石を外している展開は随所にある。しかしそれはこの物語の目的が、映画としての辻褄を合わせることよりも、妖怪という「習俗」をいかに映像に定着させるかという点にあるからで、その前提を理解せずに批評をしても、それはやはり単に難癖をつけることにしかならないのである。
妖怪の中にも「戦争」をするやつらはいるが、それは狸とか河童とか、数の多いやつらだけのことだ。「落剥した神々たち」は下手をすると人間に「祟る」ことすら忘れてしまっている例が多い。「油すまし」などはどんな妖怪だか分からず、伝承の中ではただそこにいるだけである。
代表的な反論か「妖怪が戦わないので拍子抜け」というものだが、作中で「妖怪は憎まない、戦わない」存在であるということが言明されているのだから、戦うわけにはいかないのは当然なのである。「四の五の言わずに戦え」と怒り狂ってた人もいるが、何を阿呆なことを言っているのかと理解に苦しむ。よっぽど戦争が好きなのであろう。
代表的な反論として、「PREMIERE」誌の次の批評を参照してみよう。
>「妖怪大戦争」三池崇史監督以下、豪華なプロデュースチームが放つ自信作だが…
> 妖怪というマイナーな存在を広く一般に知らしめたのは、言うまでもなく水木しげるの一連の著作とアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」である。
基本的な素養がないと言うのはこのことで、冒頭のこの文章で「はあ?」である。「妖怪がマイナー」って、こいつの出身地には妖怪の伝承は全くなかったのか?
「腹を出して寝てると“雷様”にへそを取られる」とか「川で遊んでると“河童”に尻こだまを抜かれる」とか。確かに地方ごとに妖怪の伝承はあって、その地域でしか聞いたことのない妖怪というものはあるけれども、全国区的に「有名な妖怪」はいくらでもある。「鍋島の化け猫騒動」が何度映画になったと思ってる? 「なまはげ」は東北だけにしか知られてないか? 福岡などは河童伝承には事欠かず、私も子供のころに近所の「河童おじさん」から延々と河童の話を聞かされたことがあるぞ。
文学の世界でだって、江戸期以降、妖怪・怪異の類はいくらでも扱われている。小泉八雲の、泉鏡花の妖怪譚はマイナーなのか? 柳田国男の『遠野物語』や『妖怪談義』の存在を知らないのか?
「口裂け女」や「人面犬」や「トイレの花子さん」など、今も妖怪は生まれ続けているのに、こいつはそういうのを全て「マイナー」と言い切るつもりなのだろうか。
水木しげるさん自身だって、妖怪の話を初めて知ったのは「のんのんばあ」から聞いたのだと自伝等の著書に何度も書いていることである。『鬼太郎』以前から各地に妖怪伝説はあったのだ。
けれども、ネットを散見するとこのライター氏と同様の馬鹿意見がやたら幅を利かせているのだ。妖怪はどうのこうのと余計なウンチク垂れるな、なんて意見もあるが、これはウンチクではなくて、「素養」の問題なのである。もし皆さんの中で、「だって『鬼太郎』読むまで妖怪なんて知らなかったもん」と仰る方がおられるのならば、妖怪もいない悲しい環境に育ってきたのだなあと同情を申し上げる。そういう話をしてくれるじいちゃんばあちゃんがただの一人も身近にいなかった孤独な人だってことだから。
けれどそういう人間にはもともと「妖怪」を語るための素養が備わってはいないのだということを自覚していただきたいものだ。
> いや、1960年代に大映が放った妖怪三部作も忘れちゃならない。三池崇史監督がメガホンを執ったこの久々の本格的な妖怪映画は、大映版を下敷きにしつつ、水木しげる、荒俣宏、京極夏彦、宮部みゆきという豪華な顔ぶれがプロデュース・チームを組んで原案に参加したという期待の1本。が、その仕上がりは“微妙”なものと言わざるをえない。
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08月07日(日)
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