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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■オタク道に女は要らない/『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』(古川薫)
逆に、「非オタク」なのに「オタクのふり」をして安く入って来る連中、これは結構いるんじゃないか。日ごろは「オレ、オタクなんかじゃねーよ」とか言ったり、「オレ、ガンダムに結構詳しいんだぜ。ガンダムって三号機まであるんだよな」とか意味不明なこと言ってるやつが、堂々と「オタク一枚」と言ってのけるのである。こいつらは断じて我々の「仲間」ではない。これが「オタク一枚」と名乗った者のうち何割ほどいるのか。ここが最も根拠がない試算であるが、一割、二割では利かないと思うのである。
最初から堂々と「大人一枚」と入場する人間はもちろん「非オタク」である。彼らはたとえ安くなろうとも、「絶対にオタクとだけは名乗るまい」と決意している。即ち、オタク特別料金を支払わなかった「半数」の殆どは「敵」なのだ。
となると、結局、『電車男』入場者のうち、オタクはどれだけいるのか。多分、二割から四割の間くらいだ。漠然とした試算ではあるが、「入場者の半数がオタク申告」という事実から考えると、あながちそれほど外れてもいまい。
つまり何が言いたいかというと、確かに昔に比べればオタクは世間に浸透したかもしれないが、『電車男』を見に行くような(あるいは原作を読むような)人間の中に、オタクはそんなに多く含まれてはいない、ということなのである。あるいは、もともと関心の外にあると言った方がいいだろうか。オタクが見たいと思う映画はあくまで特撮、アニメなのであって、「自分たちの生態を活写したノンフィクション」などではないのだ。
まあ別にこんな分析せんでも、ネットのレビューを見てりゃ、その殆どが『電車男』を普通のラブストーリーとして楽しんでいる「非オタク」な人々の意見ばかりだと言うことに気付きはする。そういった連中の感想って、「感動した」って言ってるポイントが「オタクなのによく頑張ったね」って言って「同情している」ところにあって、それってつまりは「オタクという属性は非社会的なものであり、かつオタクは一般人に比べて人間的に劣っている」という前提が観客の中にある、ということなのである。そんな蔑みのニュアンスが滲んでいる文章なんて読んでてもあまり嬉しくはないし、劇場で普通っぽいカップルが泣いてる様子を見ても、「ああ、こいつらは今、オレたちに同情してくれてるんだなあ」ということが目に見えて伝わってくるので、苦笑いしか浮かんでこないのだ。
だからその点に気づいているオタクの感想の中には、「アレは真のオタクの姿ではない」と懸命になって主張しているものも散見していて、いかにあれが「虚構としてのオタクであるか」ということを具体的に説明しようとしている。もちろん、そんなのはやるだけ無駄な行為で、あの映画に感動している「非オタク」の人たちにとっては、あれがオタクの真の姿を映しているのかどうかなんてことはどうでもいいのだ。
例えば「普通のオタクはあそこまでオドオドしてないよ。オレだって電車の中で女の子が絡まれてたら勇気を出して助けるよ」なんて言ったとしたら、相手はどう反応するか。「へーえ」で終わりである。だってそれじゃあ、「同情してあげられない」からだ。「女の子に声もかけられないくらい純情で、誰かが助けを求めても震えて動けないくらいに臆病」であるからこそ、電車男の「勇気」に「感動してあげられている」のに、それを否定する意見になど、一般人が耳を傾けるはずがないのである。
ともかくヒット映画ってのは、「かわいそう」な人たちが「頑張ってる」姿を描いたら、それに「同情する」観客がオカネを落としてくれるシステムになっている。『砂の器』しかり、『エレファントマン』しかりである。それが実際は差別を許容しているシステムだと言うことには気が付いていないし、実はそうなんだよと言ってやってもやっぱり「同情」することは止めない。なんとなれば人間は誰かを差別し、優越感を抱くことでしか自らのアイデンティティーを保てない動物だからである。
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08月03日(水)
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