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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■『Zガンダム 星を継ぐ者』再論/『神様ゲーム』(麻耶雄嵩)
バンクシステムは、マンガが記号であることを最大限に利用した荒業であると言える。川原泉が『小人たちが騒ぐので』で、「同じ人物のコピー絵でも、背景のトーンを変えれば全部違った顔に見える」ことを実験していたが、即ち「マンガ絵」の持つ情報量は、もともとかなり少ない。どんなに緻密に描かれた絵であっても、ナマの人間ほど微妙な表情を表現することは不可能である。だからこそアニメは基本的に「情報量が少ない」ことを逆手に取り、カリカチュアされたキャラクターと動きで喜怒哀楽を強調し、「微妙な味わい」を無視してきたのだ。ディズニーのフルアニメーションはまさにそうして発展してきたのであって、しかし初期の東映動画がそれに追随し、そして追随している限り、ディズニーを越えることは適わなかった。『鉄腕アトム』の3コマ作画は、バンクシステムは、本当に「弊害」だけをもたらしたものだったのか。同じ絵がシチュエーションを変えればどうにでも見えるということは、アニメの表現を広げもしたのだと肯定的に考えることはできないのか。それを1番最初に実証して見せたのが『鉄腕アトム』だったのであって、「動きもしない」アトムのうなだれた姿に、ロボットの悲しみを見出していたのではなかったか。『エヴァンゲリオン』の止め絵の多用をただの枚数減らしだとは思わなかったのではなかったか。我々はテレビアニメの歴史の中で、「情報量の少ない絵を想像力で補完する見方」を素直に受け入れてきたのだ。
もちろん、アニメーターの技術が向上し、予算が増えればアニメはバンクや3コマ作画や止め絵は控えるようになる。しかしそれでもアニメの「絵」は最終的に実写ほどの情報量を提供することはできない。レイアウトを考えタイミングを計り、声優が声を当て効果音を付け、更に観客の「想像力」に期待して、やっとこさ作品として認めてもらえるのである。富野由悠季が「絵コンテ千本切り」を行ってきたのは、そういったテレビアニメであり、その中には「元東映動画」の宮崎駿が監督した『未来少年コナン』などもあった。その演出力に感嘆しつつも、富野由悠季は口には出さず、考えていたことだろう。日本のアニメの歴史は虫プロが作ったのだと。
なのに、今のアニメファンは見た目のよい新作画だけに騙されて、アニメがその「記号性」を駆使する表現方法であることを忘れてしまっている。アニメは「動いても動いていなくてもアニメ」である。世界最高峰と言っていいユーリー・ノルシュテインの『話の話』や『霧につつまれたハリネズミ』などは「切り絵アニメ」であるが、あれがどれほど動いていると言うのか。動かそうが動かすまいが、アニメを作品として昇華させる要素は「演出」なのである。
「再編集で、たいして動きもせず汚い旧作画で何が悪い。逆に動かず汚い作画だからこそ編集と演出でドラマを成立させることができるのだ。ディズニーと宮崎アニメの信奉者は去れ」
私には富野監督が内心、『星を継ぐ者』についてそんなことを考えているように思えてならない。まあ、本人に聞いても韜晦して絶対に正直には言わないだろうが、そうでなければ、堂々と旧作画を劇場にかける「過激さ」の理由が説明できないのである。
恐らく、日本初の「再編集」劇場アニメは『鉄腕アトム 宇宙の勇者』だ。テレビシリーズの中から『ロボット宇宙艇の巻』〔46話〕『地球防衛隊の巻』〔56話〕『地球最後の日の巻』〔71話〕を中心に、“新作画も加えて”再構成している。今のオタクはすぐに「新作画がどれくらいあるか」ということに注目してしまうが、この時代、当然そんなことは「売り」にはならない(どちらかというと、白黒アニメだったアトムがカラーで見られるというインパクトの方が強かった)。「新作画」は、異なるエピソードを繋ぐために必要であっただけである。
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07月26日(火)
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