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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■映画とマンガの感想だけで手一杯/映画『50回目のファースト・キス』
 でも、そういったディテールが面白ければ面白いほど、「ああ、主役がアダム・サンドラーじゃなければなあ」という思いが弥増していくことになるのだ。
 この「毎日リセット恋愛」の結末がどうなるか、ネタバレは控えるが、現実に記憶障碍に悩む人々がいることを考えると、ああいう「ありえねー」形でオチをつけたことには疑問が残る。かといって、リアルに描くことが正しいってわけでもないしなあ。面白くないわけじゃないけど、どうもあちこちに引っかかるものを感じた映画だった。
  あ、しげ待望のダン・エイクロイドの出演は2シーンのみ。ルーシーの主治医の役ね。特に感想述べるほどのことはなし。


 帰宅して、昼寝。
 夕方、しばらく中断していたウォーキングを再会。頻尿がおさまるくらいにならないと、医者にも顔を出せないのである。


 マンガ、荒川弘『鋼の錬金術師』11巻(スクウェア・エニックス)。
 未だに原作派とアニメ派との間で不毛な争いが続いているらしいねえ。こういう騒動が起こるたびに「メディアが違うものを単純比較することなどできない」という批評の基本を提言する人もいないわけではないんだけどね。でも、感情的にしかモノを見られないオタクや腐女子は自分たちがいかに無知蒙昧かつ厚顔無恥な存在であるかを自覚もせずに互いを敵と見なし罵り合うことにのみ汲々としているのである。
 マンガはマンガで面白い部分もあるし、つまらない部分もある。アニメもまた同様である。原作を映像化するとはそもそもどういうことかってことについては本気で語り出せば表現方法を精密に比較しなければならないので単行本一冊くらいの分量が必要になる。そもそも通り一遍に流し見したくらいでは簡単に言えることではないのだ。評論家でもないシロウトにはそれぞれの作品を別物として見る以外に鑑賞のしようがないのであるが、評論家モドキの傲慢な人間がいかに増えたかということである。
 だから、私の場合、『ハガレン』についてはアニメから先に入ったのでアニメ派だと思われがちではあるのだが、厳密に言えばどっち派でもない。シロウトの節度を守って、それぞれを別物として面白い面白くないを語っているのである。
 前置きが長くなったが、「シン国」キャラの登場以降、アニメとは全く別の流れに入って久しい原作であるが、先の10巻でラストが死亡、「七つの大罪」のホムンクルスは一応全てが登場、ホーエンハイムもついに姿を現しと、いよいよ佳境に入るかと思われたのだが、今巻でちょいと流れが停滞してしまった。佳境に入る前だからこそ、人物や設定をもう一度確認し直す必要があったのだということは分かるのだけれど、「アルは本当に人間の体に戻れるのか?」ってのを今更再確認しなくてもよかったんじゃないのかなあ。話を進展させようとして余計なことをするとかえっていびつなものになってしまいがちだけれども、エドやアルの心理描写にどうにも納得のいかないものを感じてしまうのである。
 エドとアルが人体錬成したのは、母親・トリシャではなかったという衝撃の事実。普通なら、そこで自らの愚かしさにもっと打ちのめされてもいいんじゃないか? 「死者は蘇らない」「禁忌を犯した者には罰が下る」こんな当然のことにも気づかなかった大馬鹿者は、もっと罪の意識に苛まれても当然じゃないかと思えるのに、それがなんであんなに簡単に「アルは元に戻れる!」と希望に転換させられるのか。いくら口でアルに対して謝ってみせても、エドには贖罪の意識があまりないんじゃないかという感じがして仕方がないのである。
 『ハガレン』が二人の「罪」から始まった「贖罪」の物語であり、自らの欠損を取り戻す中で、「誰も傷つけず失わず」の理想を追い求め、ハッピーエンドを目指すものであるのならば、まだ「悩み方が浅い」と思うのである。二人が錬成したのがトリシャでないなら。あれは何だったのか? そこでもまた「誰か」が「犠牲」になっているのではないか? どうも作者がそういうところまで考えてストーリーを作ってるとは思いにくいんで、引っかかって仕方がないのである。


 マンガ、今市子『百鬼夜行抄』13巻(朝日ソノラマ)。

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07月23日(土)
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