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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■「演出家 鐘下辰男氏を囲んでの夕べ」/『クロザクロ』4巻(夏目義徳)
 ただねえ、イマドキの若い役者って、ホントに考える力をなくしてるから、いちいち具体的にここはこれこれこういうことでね、と解説してやらなきゃ台本も読めねえことも多いのである。更に言えば、説明したらしたで「難しくてわかんない」とか言われたりするのだ。
 会場に高校生の姿もあったので、高校演劇についても語られた。「高校演劇のスターって、プロになったら使えないんだよね」といきなりのカウンターパンチであるが、私も知り合いに高校生がいたりして、たまに高校演劇大会などを覗くことがあるので分かるのだが、これも全くの事実であると言っていい。「クセが付いてるんだよね」と仰って、それが具体的にどういうクセなのかは言葉を濁しておられたが、私なりにそれを補足すれば、思想的にはサヨク、表現としてはアジテート、これが高校演劇出身者の「クセ」だと思う。
 「自分が一番楽しかったのは高校の演劇部にいたころ。高校演劇には顧問主導型と生徒主導型の2パターンがあって、自分の高校は生徒主導型だった。あのころ演劇について先輩たちと自由に語り合えたことが人生の中で一番楽しくて、その経験が今の自分を創っている」
 ここで言われている前者の「顧問主導型」の演劇部にいる連中が特に「クセ」が強いのだ。しかも厄介なことに、センセイ方のオボエがよくって入賞しやすいのがまさしくこういう学校の生徒だったりするので、生徒主導型の学校の生徒もあえてこの「クセ」を研究して(せんでいいのに)マネをしてしまったりする。おかげで、どの学校も同じ色、という非常につまんない現象が起きるのだ。
 カッコつけたことを言わせていただければ、演劇とはまさに既成概念への挑戦であり、権威への反逆であり、自由への飛翔である。それゆえに歴史上、ともすれば左翼に傾く嫌いもありはしたが、本質的に全ての思想から演劇は「自由」なのである。顧問主導型の演劇部なんて、そもそも演劇部とは言えないのではないか。私の高校時代の部活も生徒は完全に自由に芝居を作ることができて、顧問が誰だったか全く記憶にないくらいだが、そうでない演劇部は不幸だとしか言えない。顧問の言うなりになっている限り、たとえ生徒たち自身がそのことを納得していようとそれは「洗脳」されているだけだからである。

 第2部は、ついに初来福する(本当にそうなのである!)鐘下さんの新作について。「『弟の戦争』をテーマに語る」。
原作はロバート・ウェストールの児童文学だが、戯曲化に至った経緯は、上演劇団の「劇団うりんこ」からの依頼を受けてとのこと。「戦争もの」はこれまでにも鐘下さんの作品の中で重要な位置を占めているが、児童劇団である「うりんこ」の依頼をなぜ受けたかについては、「現実に日本が戦争に加担している現在、逆に戦争について見えなくなっている部分があるのではないか。それをこの小説は描いているのではないか」ということであった。
この点については、本公演に関しての鐘下さん自身の文章を引用しておきたい。

〉 『知恵と経験−弟の戦争から』 脚本・演出=鐘下 辰男
〉 なぜ戦争は人間を残虐に変えてしまうのか?そもそもいかなる人間も残虐行為に走らせてしまうというところに戦争の真の恐ろしさはあるわけです。今こうして、日々のニュースなどで戦争の悲惨さに胸を痛めている私たちでも、その場にいってしまえばしっかり残虐行為を起こしかねない、そこにこそ本当の意味での戦争の悲惨があるのではないでしょうか。そもそもの悲惨は決して物の善悪を語っただけでは知ることはできないものだと私は思います。
〉 この「弟の戦争」という作品がすぐれているのは、そうしたところをうまくドラマ化している点にあります。私たちは今でもどこかで戦争が行われていることを日々のニュースで知っています。そこでどういう悲惨なことが行われているのかということも知っています。そして心を痛めたりはしています。しかし、これはあくまで知識として有しているというだけで決して戦争を「経験」しているだけではありません。経験なき知識がいかに脆弱なものであるか、私たちは日々の暮らしでそれを実感することが多々あるわけですが、それは戦争も同じ事です。

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07月21日(木)
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