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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■井筒監督は「拉致はなかった」なんて言っちゃいないよって話/映画『真夜中の弥次さん喜多さん』
そう思ってよく読んでみると、「拉致問題をきっかけに」とある通り、井筒監督は決して拉致を「幻想」などとは言っていないことに気がつくのだ。「物語」と井筒監督が言っているのは、「朝鮮問題について長い間全然意識もせずにいた」「朝鮮を植民地にして、分断の根本原因を作ったことにも目を背けてきた」という言葉との関連から考えても、「平和な日本」の部分なのであって、日本が過去に戦争を経験したことすら忘れ去ってしまっている現状を指して批判しているのだ。そう考えないと、本文全体のつじつまが合わなくなる。
ここで、「いや、俺はちゃんと忘れてないぞ」と反論したって無意味である。井筒監督が批判しているのは「忘れている人たち」であって、「忘れていないあなた」ではないのだ。
「分断の原因」については私も井筒監督に反論したいとは思うが、ここで「悪いのは米ソの冷戦構造だろう」と反論するのはやはり「日本の責任回避だ」と突っ込まれることになる。「そもそも日本が植民地支配をしなければ米ソに付け込まれることはなかった」という恨みが北朝鮮・韓国の双方に長年に渡ってある反日感情の根拠になっているので、そこから理解して反論をしなければ、これも火に油を注ぐことにしかならない。「逆恨みも恨み」なので、ただ突っぱねれば終わりになるわけではないのだ。
確かに、井筒監督は北朝鮮に対して同情的だとは思うが(知り合いに北朝鮮人が多いらしい)、これを「拉致自体を物語としたがっている」と読み取るのは無理がある。そう読みたがっている人は、井筒監督に対しての先入観というか偏見が先にあって、何としても井筒監督を「北朝鮮の広告塔」呼ばわりがしたくて無理やり読んでいるのであろう。我田引水というか「捏造」という点では、朝鮮日報を笑えるものではない。
『パッチギ!』という映画自体、私はあまり政治的に読み解きたくはないのだが(単純に『ロミオとジュリエット』的青春ものとして面白く出来ていた)、以前も書いたとおり、批判の矛先は“日本人にだけ向けられたものではない”。「迫害されている在日朝鮮人」という被害者意識を逆手にとって日本人を責めたてる在日の老人たちの卑怯さに対してもちゃんと目を向けているのである。朝鮮日報のインタビューがどれほどの長さのものだったかは分からないが、仮にそういうことを井筒監督が語ったとしても、当然、カットされているであろう。そもそもインタビュー記事が監督の生の声であると判断すること自体、メディアの本質というものが分かっていない。
しかし、これも誤解を招かないように念のために書いておかなければならないのだが(まあ、誤解したい人は何言ったってわざと誤解するものではあるが)、私は井筒監督の思想に全面的に賛同しているわけではない。在日の問題はデリケートであるだけに、その扱い方が大雑把に過ぎるのはちょっとどうかとは思っているのだ。「北朝鮮のスポークスマン」のように勘違いされても仕方がない「ウカツさ」は確かにあって、逆にだからこそ「あんなウカツな人を広告塔にしてどうする」と、「広告塔説」を否定する根拠になっているのである。
あのね、井筒監督の発言を聞いてりゃさ、あの人がそんなに「難しいこと」が考えられる人ではなくって、極めて庶民的な感情から映画を作り、発言していることは察しがつくってもんじゃないのよ。嫌われると分かっててプロが映画評を好き放題言ってるのは馬鹿な証拠だ(笑)。一番「ウカツ」なのは、朝鮮日報の取材に応じちゃったことだろうが、これも「断る理由がない」とか、素直過ぎる理由で受けちゃったんだろうなあと思うのである。
井筒監督が思想的なところから外れている人だという根拠は、記事中のこんな文章にも表れている。
>「人の苦しみに寄り添う芸術とは? 教条主義やウソではない、ピカソのゲルニカのように厳しい現実の中から生まれるものでなくてはならないと井筒監督は考えている」
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05月20日(金)
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