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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■ネットに一杯のオカマ/『竹熊漫談 ゴルゴ13はいつ終わるのか?』(竹熊健太郎)
一番の不安材料ってのがそもそも「角川春樹事務所製作」ってとこじゃないか。まさか監督角川春樹自身か? もしそうだったら、どんな駄作ができあがることか、想像するだに恐ろしい。
それでも『七人の侍』のリメイクよりは(『SAMURAI7』のつまんなさ、あれ何なんだろうね)まだリメイクのしがいがあるのが『用心棒』かもしれない、とは思う。黒澤明の代表作の一つに挙げられてはいるけれども、公開当時から「荒唐無稽過ぎる」という批判もある(佐藤忠男や田山力哉は特に『用心棒』を嫌っていた)。役者の力、演出の力であまり気づかれないが、脚本上の欠陥もある。
私が一番弱いなと思うのは、主人公の三十郎の行動の動機に今一つ説得力がないという点だ。何しろ三十郎は最初から馬目の宿の人々を救うつもりでヤクザたちの抗争を煽っているのである。旅から旅の風来坊で、宿場とは縁もゆかりもない三十郎が、ヤクザに入門しようって若造を見かけて、酒場の親爺から愚痴を聞かされただけで、どうしてそんなお節介極まりない気持ちになったのか、どうも腑に落ちない。「三十郎がそういう性格だから」と納得するしかないわけで、この問題は黒澤明自身も気になりはしたらしく、逆手を取った形で続編の『椿三十郎』のストーリー上の重要なモチーフにすらなるのである。なんたって、若侍たちに協力する動機が「てめえらのやることは見ちゃいられねえ」だけである。若侍たち自身が「縁もゆかりもないのだから」と三十郎を信じられなくなっても無理からぬ話である。
お前、実は公儀隠密なんじゃねえか(笑)という皮肉の一つも言ってみたくなるが、どうやら同様の思いをしていたのが岡本喜八で、シリーズを受け継いだ『座頭市と用心棒』では、用心棒を本当に公儀隠密にしてしまった。シリーズ最終作の稲垣浩監督『待ち伏せ』でも似たような「役目」を負わされている。そういう「縛り」は三十郎というキャラクターをかえってつまらなくしてしまうが、物語の不合理を正すことを優先するか、主人公の奔放な魅力を優先するか、どちらを取るかの判断は難しいところである。
『用心棒』の原作とされている、ダシール・ハメットの『赤い収穫』では、この問題はもともとクリアーされている。主人公はコンチネンタル探偵社のオプ(調査員)だからだ。依頼を受けてポイズンヴィルに派遣され、そこで自分の依頼人が消されたことを知る。コケにされ、そのまま手ぶらで帰るのが業腹だったオプは、街のボスの一人である依頼人の父親に取り入り、街で起きる事件の数々を「解決」していくのだ。ここで重要なのは、映画の三十郎と違って、コンチネンタル・オプは抗争するボスたちをハメるための仕掛けを殆ど弄していない、という点である。もともといつ殺しあいが起きてもおかしくない状況で、実際に「暗殺」が横行しており、証拠がなくてお互いに動けなかったものを、オプは独自の調査で証拠を集めていくだけなのだ(たまにハッタリも使うが)。つまり別にオプがいなくても、ボスたちの抗争は勝手に起きて勝手に収束していたことは明らかで、オプのやったことはその崩壊のスピードを速めることに過ぎず、その目的も「コケにされた復讐」と「上前を撥ねる」ことにあった。三十郎が持っていた天然の正義感などは全くないのである。その意味で『赤い収穫』を『用心棒』の原作とするのには私としては大いに異を唱えたいところだ(小説からの明らかな台詞の流用があるので、黒澤明なり脚本家の菊島隆三なりが『赤い収穫』を読んでいたことは間違いないのだが)。
『用心棒』のリメイクに関して一番難しいだろうと思うのは、製作当時の昭和36年ですら、「風来坊の正義感」に違和感を持った人々がいたというのに、更に即物的な人々が増えた現代、三十郎のようなキャラクターが受け入れられるものだろうか、という疑問である。新たな「原作小説」は既に福井晴敏に依頼されているということだが、そういった問題点にはいささか無頓着な人のように思えるので、果たしてヒットを見込める作品に仕上げられるかどうか、これも不安材料のように思えてならない。
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05月18日(水)
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