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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■落ちる人形/ドラマ『冬の輪舞 特別編』

 昨日、連絡があったのだが、結婚が秒読みでそう言いながらなぜか足踏みしていたハカセ(穂稀嬢)が入籍されたとのことである。個人的なことなんで、日記に書こうかどうしようかは迷ったけれど、破局のニュースではないからまあよろしかろう。
 これまでは散々直接間接を問わずノロケられまくっていて、そのあたりの話題もアップすれば楽しかろうなあとは思っていたのだが、万が一にでも破談なんてことになったら可愛そうどころの話じゃないと思ってたんで控えていたのである。
 考えてみれば知り合ったのが彼女がまだ十代のころで、当時からその強烈なキャラクターにはかなり圧倒されていた。どこがどうすごいか、それこそオモテじゃとても書けないのであるが、まあ、基本はいい子だと思うよ(←これだけ言っときゃいいと思ってる)。ともあれおめでとう。末永くお幸せに。
 せっかくだから、ウェブ日記でも書いて新婚生活教えてよ、とメールを送ったのだが、「痛いからいいですよぉ」と返事が来た。ハカセからこんな「わが身を知る」の言葉が聞けようとは! ヒトはオトナになるものである。


 『テアトロ』6月号、演劇評論家の林あまりさんが、うずめ劇場の『ねずみ狩り』を観劇して、「スッポンポンになるなんて潔い」と誉めていらっしゃる。私はあの芝居はかなりつまらなくて退屈してしまったので、あまり誉める気にはなれなかった。というか、真裸になることを評価するような動きがあっちゃ、よくないなあと思っていたので、案の定、こういうレベルの低い批評が出たことに暗澹たる気分に陥ってしまったのだ。
 演出家のペーター・ゲスナー氏の、恐らくは虚飾を排した肉体そのものによる演劇の構築を目指したらしい意図は理解できなくもないのだが、それが同時にこの演劇の限界にもなってしまっている。つまり、真っ裸になってしまったら、それ以上、我々は脱ぐものは何もなくなってしまうのだ。更に言えば、スッポンポンになるくらいのことで話題になる程度に現代日本の演劇表現は稚拙で逼塞してしまっているのかと逆に問いかけたくもなる。映画のほうなら、ああいう芝居は大島渚がもう何十年も前に『愛のコリーダ』で凌駕してしまっているのだ。
 芸術もまた一つの「メディア」である。それはすなわち「媒体」であるということで、作家、演出家、役者の意図したことがそのままストレートに伝わるわけではない。そこに現れた現象を観客は自らの経験と知識とに裏打ちされた見識によって咀嚼するのであるが、厄介なのは、観客は自らの頭脳に対して著しく無自覚である、という点である。舞台と観客との間に、さながら魑魅魍魎が蠢くブラック・ボックスが存在しているようなもので、演出家の才能というものはいかにその魑魅魍魎に形を与え、観客を心理誘導できるかという点にかかっているのだが、『ねずみ狩り』はかなりな部分でその誘導に失敗してしまっている。翻訳劇を外国で上演する際には、文化も習慣も違う風土にいかに現実性を持たせるかの工夫が必要であるが、それがまるでうまく行っていない。たとえば殆ど初対面の二人がどうして関係を持とうということに至ったのか、その背景がニュアンスとしてすら出せていない。真っ裸になり、お互いの獣性を発露するかのように求め合う二人の姿の中に、ほんのひとかけらでも人間的なものを残すような演出を試みていれば、それすらも最後の最後で踏みにじられる悲しさが、観客にも伝わったはずだと思う。日本人の観客を誘導するには、「そういう描写」が絶対に必要になるのである。
 役者の技量が高ければ、あるいは演出家がもっと日本の現実を捉えられていれば、『ねずみ狩り』はもっと笑えたはずだし、もっと切なくなれたはずだし、もっと感動できたはずだ。戯曲自体は悪くないと思えるだけに、そこが残念な芝居だった。


 夜、金曜ロードショーで映画『エボリューション』。DVDも買ってるので見ようと思えばいつでも見られるのだが、ダン・エイクロイドが出ているので、流れていれば結局チャンネルを合わせてしまうのである。映画としては『ゴースト・バスターズ』のエイリアン版で、つまんなくはないけど二番煎じの印象をぬぐえないんだけどね。


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05月13日(金)
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