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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■昭和の日。/映画『Shall we Dance? シャル・ウィ・ダンス?』
 そういう感覚的な批判(印象批評は批評の出発点でしかないのだが、そういう基本も今の評論家やオタクは体得していないのである)ではなくて、映画の構造上のミスを挙げれば、例えば大戸島の「ゴジラ」伝説がネーミング以外にドラマにまるで関わっていないとか、志村喬の語る「ゴジラ保護論」も、言葉で語られるだけで、同じくドラマを盛り上げる葛藤としての役割を果たしていないとか、いろいろあるのである。私がこれまで読んだ『ゴジラ』批判の中で少しは納得できたのは、富野由悠季の「本編の演出が特撮シーンのことを全く考慮していない」というものであった。これは単純に「ゴジラとの目線が合っていない」「怪獣と人間との比率がおかしい」ということだけではなくて、普段の芝居を演出する際に、背景に「怪獣が本当に存在している」という実感を持って演出することができていない、ことを指しているのだろう。もっともそれが出来ている怪獣映画なんて、皆無に等しいのだが。
 瑕瑾はあれども、第一作『ゴジラ』がシリーズ中、唯一の傑作であり、オリジナルとしての価値があることは間違いないことで、「今見るとつまらないですよねえ」なんて言っていっぱしの批評家気取りになっているエセオタクとはもう私は話をしたくもないのである。
 ……とか言いながら、私も今回コメンタリーを聞いていて初めて気づいたことも多く、例えば電車の中でゴジラのニュースを知って、「いやねえ、また疎開しなくちゃいけないのかしら」とか暢気なことを言っていた女性(東静子)、ゴジラが初上陸するときに東京湾の遊覧船上で暢気に踊っていたのである。これはゴジラなどという荒唐無稽なものに対して、一般民衆が実はたいして気にも留めていなかった、という具体的な描写であり、だからこそいざゴジラが上陸してきたときに電車は動いているわ民衆は今更のように逃げ惑うわ、という「何でみんな逃げてないんだよ」という批判に対する答えにもなっているのだ。この第一作に限って言うなら、民衆が逃げ惑う描写は決して不自然ではない。
 あと、クレジットされてないので気がつかなかったが、冒頭の通信室のシーンで、藤木悠がチョイ役出演していた。こんなん気づかんわ(笑)。

 
テレビ民放で、平成3年月曜ドラマスペシャル、古谷一行主演の『八つ墓村』再放送を見る。これは本放映時に見逃していたもので、多治見辰也が鶴見辰吾、要蔵がジョニー大倉、春代が浅田美代子、久野医師が戸浦六宏、森美也子を夏木マリが演じているもの。
 もう何度となく原作の出来の悪さには言及しているので、どう映像化したって面白いものにはならないと分かった上で見てみたのだが、ちょっとびっくりしたのは、他の映像化の際には無視されることの多かった辰也の実父の行く末、それと犯人の最期が原作通りだったことである。これと市川崑版の『八つ墓村』を程よくブレンドすれば、原作の忠実な映像化になるのだが。どっちにしろ、真面目に映像化したら、どうしても四、五時間の大作にはなっちゃうので、今後もそんな映画が生まれることはありえないだろうけれどもね。
 

リニューアルになってから第三回目の『ドラえもん』、前後編30分ぶっ通しでの「どくさいスイッチ」のアニメ化というのは、「『ドラえもん』はのび太の言うままに道具を与えてばかりで教育上よくない」という批判をかわすためか、リニューアルで視聴率を落とすまいという判断から原作の名作をつるべ打ちで行こうという判断からか。来週放送予定作品が「成長した星野スミレ」が登場する「オールマイティーカード」だってことからも、後者じゃないかという気がする。

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04月29日(金)
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