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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■訃報二つ/『名探偵ポワロとマープル3 雲の中の死』(石川森彦)
 1964 五辧の椿 (原作 山本周五郎) 
 1968 白昼堂々(原作 結城昌治)  
 1970 影の車 (原作 松本清張)
 1974 砂の器 (原作 松本清張) 
 1977 八つ墓村(原作 横溝正史)
 1978 事件(原作 大岡昇平)
 1979 鬼畜(原作 松本清張)
 1979 配達されない三通の手紙(原作 エラリー・クイーン『災厄の町』)
 1980 わるいやつら(原作 松本清張)
 1981 真夜中の招待状 (原作 遠藤周作『闇の呼ぶ声』)
 1982 疑惑(原作 松本清張)
 1983 迷走地図(原作 松本清張)
 1985 危険な女たち(原作 アガサ・クリスティー『ホロー荘の殺人』)

 晩年の作は殆どミステリーばかりと言ってよいが、そこそこの秀作はあっても文句なしに傑作と言えるのは『張込み』『事件』『鬼畜』くらいのものであろう。しかもこれらの作品の面白さはあくまで映画としての面白さであって、ミステリーとしてのそれではないのである。『張込み』『鬼畜』は犯罪を題材にはしているが、ミステリーとしての興味はかなり薄く、『事件』も原作が本来目指したものは裁判の集中審理方式に関する是非であり、推理小説のそれではない。これだけ松本清張作品を映像化していながら、最も本格ミステリとしての体裁を整えている『ゼロの焦点』が一番つまらない出来なのである。横溝正史、遠藤周作、クイーン、クリスティーの映像化に至っては、ミステリーとしてはトホホなものばかりであった。「ミステリ映画を作る才能がない」と断定しても構わないと思う。
 「いったい何が野村芳太郎に欠けていたのか」という点を考えたとき、比較の対象として黒澤明や岡本喜八を挙げれば、納得していただける方も多いと思う。黒澤明の場合はブレーンにミステリマニアの脚本家・菊島隆三がいたことも大きいと思うが、実際、野村芳太郎以上にミステリに対する造詣は深かったと思われる。純粋にミステリーを原作にしたものはエド・マクベイン原作の『天国と地獄』くらいだが、『野良犬』『羅生門』『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『椿三十郎』などにはミステリーの要素が横溢している。岡本喜八も、出世作『独立愚連隊』は完全に本格ミステリの体裁を取っていたし、大藪春彦原作の『暗黒街の対決』『顔役暁に死す』、ウールリッチ原作の『ああ爆弾』、都筑道夫原作の『殺人狂時代』、天堂真原作の『大誘拐』のほか、やはりミステリ趣味満載の映画が数多くある。黒澤・岡本両監督のミステリ趣味は、常に「粋」だということだ。
 まさしくその「粋さ」こそが、ミステリ映画をミステリ映画たらしめる重要なファクターなのである。例えばそれはどんなところに現れているかというと、『用心棒』『椿三十郎』で三船敏郎が敵を欺くために見せた数々の機知、『天国と地獄』のあのパートカラーの煙、『殺人狂時代』での仲代達矢のとぼけぶり(あまり具体的に書くとトリックをばらしちゃうので書けない)などなど、それらは映画、映像表現であるがゆえに効果的なものばかりであった。まさしく黒澤・岡本監督は「映画作家」であったのである。
 それに対して、野村作品のミステリ描写はことごとく芸がない。ただカメラで写しているだけで演出というものがない。『砂の器』の「カメダ」ほか、謎解きの高揚感のなさはどうしたことだ。「allcinema online」などのユーザーコメントを見ても、「親子の情愛」云々について語るばかりで、一般観客の感動がミステリ部分には全く関わっていないことがよく分かる。
 「ミステリ映画の第一人者」というイメージが、いかに野村芳太郎の本質とかけ離れているか、それは例えば野村さんの映画を見て原作者に興味を持ち、他の作品を読んでいけば、野村さんがいかに原作者の代表作を“外して”映像化しているかもよく分かる。横溝正史、クイーン、クリスティーについてはどうしてそれを選んだのか、理解に苦しむほどで、これはもうミステリに対する感度が著しく低いと言うしかない。別にミステリとして面白くなくてもいいじゃないか、と仰る向きにはミステリをミステリとして映画化しないのは羊頭狗肉であると反論しておこう。

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04月08日(金)
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