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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■お勤め最後の日。内容は特にない/能楽座福岡公演『能狂言』
 「泰山府君」とは人間の寿命を司る山神であるが、名前の通り、ルーツは中国である。伝説によれば吉備真備によって賀茂家、続いて安倍家に伝えられ、陰陽道の祖神として祀られるようになったという。普通、「たいさんふくん」と読むが、舞台では「たいざんぶくん」と発音されていた。通常、二項対立で描かれることの多い天女と人間という関係の中に、裁定者としての泰山府君という「神」が介入してくる図式が面白い。ここでは天女も人間と等しく、花の美しさに惑わされて一枝盗んでいく。「花折」は能狂言の重要なモチーフの一つであるが、たいてい犯人は世俗の数寄者であるのが、ここでは天女。天女も魅了されるほどの花の美しさ、という逆説的な表現でもあろのだろう。
 「羽衣」でもそうだが、天女は決して至高の存在ではない。自身の煩悩に惑わされている点では怨霊に一脈通じてさえいる。天女が至高の存在でないのと同様、天上もまた地上を統べる万能の空間ではない。泰山府君の「天井にてこそ栄華の桜」との言葉とは裏腹に、手折られた花の命を永らえさせる力とてないのである(これはつまり天女の邪な心故にであろう)。しおれた花を持って泰山府君に声もなく差し出す天女の嘆き。もはやそれはただの「女」の姿である。
 能が多く現世ならざるものを扱うのは、現代人がファンタジーを好む感覚に通じるものがある。日常と非日常の交錯、異界の住人はマンガや小説中にゴロゴロしている。しかも「人間臭い」ところまで同じだ。『ああっ女神さまっ』の原点として楽しめば、能の世界も面白く鑑賞できまいか。……ってこんなこといつたら真面目な能のファンから怒られちゃうかなあ。

 狂言『川上』はもちろん万作・萬斎親子の絶妙な芸で客席の笑いを取っていたのだけれども、物語自体、みょうちくりんなものである。めくらの夫が川上地蔵の霊験で目が見えるようになる。ところが地蔵は夫に「妻とは悪縁だから別れよ」と告げる。妻がそんなムチャクチャなことを言う地蔵がどうして仏なものかと夫をなじるので、夫はつい「分かった、別れない」と答えてしまう。途端に夫の目は元通りのめくらに。
 昔の人が信心深かった、というのはまあ半分は本当で半分は嘘だろう。現代人も結構たくさんの人が占いだのシューキョーだのに引っかかっちゃってるのを見れば、人間のメンタリティなんて時代が進歩しようがたいして変わりゃしないのだということがよく分かる。昔の人にだって、現代人に通じる合理的精神の持ち主はいたわけで、人間を勝手気ままに幸せにしたり不幸せにしたり、そんなもんが「神だ仏だと言えるか」と憤慨していた人は当然いたのだ。手を取り合って橋掛かりを歩いていく夫婦の姿を見ながら、『川上』はまさしく「信仰の否定」の物語なのだなあと感嘆した。であって、しかもそれは「たとえ仏に本当に神通力があろうとも、そんなものは拒絶する」という強い意志がそこにあるのである。
 『竹』を見てるときはかなり体調が悪くなっていたので、印象が薄い。萩原朔太郎の詩を謡曲に仕立てたということだが、どういう趣向がよく分からなかった。やっぱ能波田一様が万全のときでないと集中しては見られんわ。

 観劇中に小さな余震が二度ほど。体感では震度1くらいか。しげが後で「揺れた?」と聞いてきたので「もちろん揺れたとも」と答える。別に威張っていうこたない。
 もうそろそろ余震も終わるんじゃないかと思ってたところにこれだから、断層野郎も相当しつこいのである。公演が中止にならなかったのが不幸中の幸い。

03月31日(木)
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