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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■再び地が震える日/『BSアニメ夜話/クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』
なにかのバラエティ番組で、細木数子が和田アキ子や出川哲郎になんか説教してるのを見てたら、しげから「何で細木数子とか見てるん?」と驚かれた。別にテレビを点けたらかかってただけのことで、意味があるわけではない。なんか、私が世をはかなんで占いに走ったかのように思われたらしい。んなわけあるかい。
夜11時から、、昨日に引き続き、NHKBS−2『BSアニメ夜話』。今夜は待ってましたの「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲」。ある意味、『クレヨンしんちゃん』、特に劇場版を好きか嫌いかで、アニメファン、オタクの「派閥分け」ができる指標でもある。嫌いな人、興味がない人は私の日記なんか見ないでよろしい。そういう人たちにとっては私の文章は不快なだけであろう。
『クレヨンしんちゃん』に限らず、テレビアニメシリーズの劇場版が製作されたときに、元のシリーズと比べてまるで趣の違った作品に仕上がることはままあって、それがすごい傑作になってたときには、かなり物議を巻き起こすことになる。
例えば、本番中でも指摘されていた『ルパン三世 カリオストロの城』(宮崎駿監督)、あるいは『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(押井守監督)、近作では『ONE PIECE THE MOVIE 〜オマツリ男爵と秘密の島〜』(細田守監督)などが挙げられるだろうが、おそらくそういった「テレビシリーズとの乖離」において最も激しいのがこの『オトナ帝国』だったのではないかと思う。
もちろん私に限らず、『クレヨンしんちゃん』の劇場版シリーズに初めから注目していたアニメファンはたくさんいたわけで、「『クレヨンしんちゃん』はすごいよ!」とコトあるごとに力説していたのだが、まあまともに相手にされることはほとんどなかった。だから逆に、『オトナ帝国』で初めて『クレヨンしんちゃん』の魅力を知りました、なんて言ってる人間を、私はマトモなアニメファンとは認めないのである。
しかし、長年の「クレしん」ファンであった身であっても、『オトナ帝国』の異端ぶりには度肝を抜かれた。そのへんの事情を語りだすときりがないので、私の昔の日記とか読み返してください。
いったいこれが誉め言葉になるかどうかは分からないが、番組中でも国生さゆりが言っていたように、「『クレヨンしんちゃん』なのに泣ける」という異常事態が、映画を見たイイ年をした大人の間で蔓延していったのである。
番組中で、岡田斗司夫、唐沢俊一両氏は、露骨に「この映画について一番深く分かっているのは自分だ。自分だけがしゃべりたい、他人にはしゃべらせたくない」ような態度でいたが、もはや「古狸」の域に達しつつある両氏にまでそういう大人気ない自我肥大の態度を取らせてしまうほどに、この映画には「オタク第一世代」の魂を直撃する要素がてんこ盛りであったのである。
いやねえ、我ながら困ったもんだと思うのは、立川志らくさんの言に対して、岡田さんが「違うな、違うな」と突っ込んでるのに対しても、「それも違うな」と突っ込み入れたくなってしまうことである。岡田さん、唐沢さんが指摘する言葉を聞くたびに、「それは見方が甘い」とか「それだけじゃない」とか思ってしまうのだが、たかが一時間の番組で「オトナ帝国」の魅力を説明しきれるはずもなく、パネラーの皆さんもそれぞれに「語りつくせていない」感が当然あるはずなのに、そんなふうに思ってしまうのは、やはり自我肥大を起こしてしまっているのである。そういう文句のつけ方は自身の傲慢に無自覚なただの難癖でしかない。
「自分が最良の理解者」(文学の分野では特に太宰治ファンの女性にこの傾向が強いので、「ダザイ現象」と呼んでいる。SF界では一時期そういうのは「ゲンマ」って言ってたな)という思い込みを持つことは、自分がただのファンではなくて客観的な批評者たろうとするのであれば最も避けなければならない基本事項なのだが、『オトナ帝国』にハマッた人々は、これが『エヴァンゲリオン』のような社会現象を生むにまでは“至らなかった”だけに、かえって思い入れの度を強くしているように思う。
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03月29日(火)
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