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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■気持ち悪い話(笑)/『オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界』(稲葉振一郎)
 『スター・ウォーズ』が『スペース・オペラ』と言いつつも、実は宇宙を舞台にした御伽噺でしかなくなっていることはもはや明確な事実であるが、長谷川裕一の『マップス』は「寓話」となる寸前で「SF」として成立していると作者は主張する。そんなのどっちでもいいじゃないか、という反論はあろうが、その違いは、長谷川裕一マンガの魅力はSF性にこそあり、と信じている読者にとっては重要だろう。「神とは何か」というSFのテーマをただの「寓話」として終わらせるか、科学的可能性としての「未来」として受け取るかは、そのベクトルが全く違う。
 種々雑多な宇宙人が登場する銀河世界など、現在ではほとんど荒唐無稽な域の物語であるし、私は別に「寓話」でかまわんと思う。人間であれビメイダー(人工生命)であれ、自意識(心)を持った存在が、そのアイデンティティーを「心があること」に求めるというのは、循環論法であり、証明不能な「コギト・エルゴ・スム」の哲学の課題でしかない。しかし、現代では「SF」は「寓話」としてしか語りえないのではないか。科学もまた本質的には哲学であり神学の範疇にあるのであろう、というのが私の現在のSF観である。
 もちろん私は稲葉氏の論が間違っていると言いたいわけではなく、長谷川裕一作品が、「SFマンガ」を考察したい人のための格好のテキストである、という作者の基本的姿勢は多くの人に共感を持って受け止めてもらいたいと思うのである。

 本の内容からちょっと離れて、これは私の推理、というよりは勝手な憶測なのだが、石森章太郎が『サイボーグ009』を完結できなかったのは、長谷川裕一の存在があったからではないか、と想像しているのである。長谷川さんの『マップス』が連載されたのは『SFアニメディア』(後に『コミックNORA』と改題)の創刊号からだが、これには『009』最後の長編「時空間漂流民編」も同時連載されていた。
最初、編集部は、『009』完結編「神々との戦い編」の連載を依頼したという。それに対して石森さんは「まだ準備が整っていない」と断ったという。ではなぜ、「漂流民編」が終了した後、完結編に着手しなかったのか。『NORA』は長いこと「時空漂流民編」の権利を他社に渡さなかったし、当然その「席」を用意していたはずなのだが、結局、完結編は描かれることはなかった。
 これは、同誌に連載されていた『マップス』を石森さんが読んで、「しまった! 先を越された!」と思ったんじゃないかというのが、私の憶測なのである。
 「神々とは何か? 地球上に残るさまざまな不可解な遺跡、ピラミッドやモアイ像などなどの探索から人類発祥の謎を追い求め、その果てに『創造者』としての“神”とサイボーグ戦士たちが対峙する」というのが「神々との戦い編」の基本ラインになるはずだったことは今ではよく知られている。
 しかしそれは、「宇宙に残る伝承を辿って、この宇宙発祥の謎を追い求め、その果てに創造主たる“神”と対峙する」という『マップス』のストーリーラインとそっくりなのである。しかもスケールは長谷川さんのほうがはるかに大きい。結局は「専守防衛」で内へこもって終わりそうな『009』に対し、『マップス』は銀河障壁を越えようという、外へ外へと広がっていく物語だった。
 「009」をライフワークと任じ、自身の最高傑作であるのみならず、日本SFマンガの最高峰にしたいと望んでいたと思しい石森さんにとって、『マップス』ショックは相当なものだったのではないかと思う。『マップス』を超える作品を描かなければならない。しかしそのプレッシャーがどれだけ大きいものか、これは『マップス』を読まれた方ならばすぐにご理解いただけると思うのだが、日本におけるスペース冒険ファンタジー作品としては、『マップス』を超える作品は空前絶後なのである。最高傑作を超える最高傑作なんて、いくら石森章太郎でも無理というものである。
 石森さんは悩んで悩んで、結局、描けなかった。膨大なメモだけは残っているようだが、完結を約束された息子さんたちも、それを「傑作として」纏め上げることは不可能なのではないかと思う。残念なことではあるけれど。


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03月28日(月)
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