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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■映画をイデオロギーのみで見てしまうことの愚/映画『パッチギ!』
在日朝鮮人でも拉致に加担していた人間、工作員のスパイ活動に密かに協力していた人間もいたはずで、それは葬式に集まっていた人々の中にも混じっていたのではないか、どうしてもそのように感じてしまうのだ。となると、「あんたたち日本人は何も知らん」と、笹山高史が切々と「強制連行」という“過去”の日本人の非道をなじる言葉も、言葉通りに素直には受け取れない。「拉致」という“現在”の北朝鮮人の犯罪を隠蔽しようとしているかのように聞こえてしまうのだ。また、連行の問題についても全てのケースが「強制」だったとは言いきれまい(逆に全て「強制ではなかった」と断定するのも強弁に過ぎるが)。
更に言えば、確かに死んだ在日の人物は日本人との抗争の最中に命を落としたのであるが、直接の死因は不慮の事故なのであって、日本人に殺されたわけではない(だから警察も動かない)。遺族が主人公に恨みをぶつけるのはお門違いなのである。笹山高史さん、すばらしい演技を見せてくれているんだけど、見てるこちらは「いや、それ違うって」と突っ込まざるをえないのであった。
けれど、だからと言ってこの映画の「全体」が親北朝鮮に傾いているかと言うと、それもまた違うのであって、先述した「葬式の席で主人公が遺族になじられる」シーンは、実は映画の構成上では「旧世代の無理解」として描かれている。
主人公は、朝鮮学校の少女に恋をして、自分も在日朝鮮人の人たちの気持ちがわかるようになりたいと思っている。そんなときに知ったのが放送禁止歌『イムジン河』だった。主人公は南北分断の悲劇を歌った歌を、日本と朝鮮の間に生まれた深い溝を悲しむ歌として受けとめ、歌うようになる。その気持ちに打たれたからこそ、少女も、また少女の兄や仲間たちも次第に主人公に心を開いていくのだが、親たちの世代はいつまでも「過去の亡霊」に囚われたままだ。だから自分たちの主張はするが、他人の言葉は一切聞き入れようとしない。
そんな彼らに、ヒロインの少女は『イムジン河』をラジオで歌う主人公の声を聞かせる。これは、いつまでも「強制連行」に拘り、日本人に心を開こうとしない在日の人々に対する痛烈な批判である。朝鮮人自らが朝鮮人批判をするこの描写をして、「北朝鮮寄りの姿勢」とどうして言えるだろうか。
朝鮮人を批判するためには、まず朝鮮人が何を言っているのか、それを描かなければならない。だから朝鮮人の「強制連行」について在日の人々が語る描写は必須だろう。しかし、それが結果的には日本人、朝鮮人の間の溝を深める原因になっていることを井筒監督はちゃんと描いている。そこまで見なければ、この映画を見たことにはならない。“問題は旧世代の朝鮮人の偏狭さにこそあるのだ”。
これだけ明確に「朝鮮人批判」を行っている映画がなぜ正反対に受けとられてしまうのか、そんな観客・批評家を「映画をマトモに見てねえバカだから」と言いきることも可能ではあるが(先入観が眼を曇らせている可能性もあろう)、それだけでもない。そこには映画自体が持っている「ディテールの魔力」が根底にある。
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01月28日(金)
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