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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■さようならドラえもん/『ハウルの動く城』
 逆に駄菓子屋や卓袱台のある風景など、原作以上に「昭和の遺物」をやたらと取り込んで映像化した映画『がんばれ! ジャイアン』の方が、現在の「ドラえもん世界」の中では奇妙に異質に見えてしまうことになった。デパートの家具売り場にもう昔風の卓袱台は売っていない。「平成の子供たち」にとって、あの映画はまるで「時代劇」のように見えていたことだろう。畳の部屋はかろうじて残っているものの、『ドラえもん』シリーズから昭和の匂いのする小道具は少しずつ、確実に排除されていっているのである。
 だが、それでも私は、いくら時代が変わっていくものだとは言え、パソコンやケータイを使うようなのび太たちを見たいとは思わない。初期にはなかったテレビゲームをのび太たちは競ってするようになった。これから先も『ドラえもん』が続いていくとすれば、いずれ作品中にそういうものはどんどん登場していくだろう。けれどそれは私にとっての『ドラえもん』では、いや、既に藤子マンガですらないのである。そこに私たちが感じていた「生活」が存在していないからである。
 パパの会社を覗きに行ったり、親子げんかの果てに家出をしたり、親子の絆を描くエピソードも多かった『オバQ』に比べ、『ドラえもん』でのパパとママはあまりにキャラクターが弱く、のび太との関わりなどないに等しい(食卓で新聞を読んでいるパパ、のび太を勉強のことで叱るママ、といったステロタイプ以外のイメージを思い浮かべられる人がどれだけいるだろうか?)。実は声優の交代は今回が初めてではなく、初代パパであった加藤正之氏が死去し、現在の中庸助氏に変わっているのだが、それがいったいいつからなのか、とっさに答えられる人がどれだけいるだろう(お二人の声質は決して似てはいないので、よく見ている人ならすぐに気がつくのだが、多分、大半の視聴者が「聞き逃していた」に違いない)。親子・家族関係そのものが変質し、希薄になってしまっている現代に、何と見事に合致していることか。
 この一事をもってしても、『ドラえもん』が巷間言われているような「生活密着型」の作品ではなく、そこから遊離しようとして作られてきた作品であることが分かる。『オバQ』は日常生活の中に「異物」が混じりこむことによって起こる騒動を描いたものであったが(つまり基本は「国際結婚もの」と同じ。ベクトルが「内側」に向いているので、開放感を与えることを目的とする映画には向かない)、『ドラえもん』は日常の存在を非日常に連れ出す作品であるのだ(ベクトルが「外側」に向いているから、映画化しやすい)。
 『ドラえもん』の「生活感覚」は、これから時代の流れによって変質していくものとして次々と設定しなおされていくのだろう。それはもはや私たちの世代が好きだった「時代を象徴する作品」としてのそれではない(まあ、それを言い出せば私は最初の富田耕生版『ドラえもん』のほうが好きで、大山のぶ代の声には未だに慣れないのだが)。今回の声優交代は、単純なリニューアル、という意味だけではなく、「昭和の切り捨て」という意味も持つことになるだろう。恐らくは今回も「イメージが変わるのはイヤ」程度のことで批判する浅薄なファンはボウフラか糞蝿のようにワラワラと涌いてくるだろうが、自分が固執しているものの意味に思いを馳せるだけの心の余裕もない彼らを見ていると、時代の断絶を感じさせる分、かえって寂しく思わないではいられないのである。
 あのね、もう君たちは“『ドラえもん』から”見放されているんだよ。オールドタイプにドラえもんとひみつ道具を共有できる資格は、もうないのさ。


 しげは朝から練習、前半はダンス中心で演出の出番はないので、私の方は朝寝。
 午前中、2週間ぶりに亀の水槽の水換え。こないだの3週間よりはましだが、やはり中がかなり臭くなっている。底に敷いている石も3ヶ月ほどで変えなきゃならんという話であるが、もう軽く3ヶ月越えてるんと違うかな。洗うだけでは持たないのである。
 そのあとすぐに、練習に行くつもりだったけれど、横になったらそのまま疲れて寝てしまった。3時を過ぎて穂稀嬢から連絡が入り、慌ててタクシーを拾い、素っ飛んで行く。

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11月21日(日)
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