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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■年齢は関係ないのだ。
翻って、ネットの掲示板などでの罵り合いは、殆ど脊髄反射的な感情のぶつけ合いでしかない。「傷つきたくない症候群」は、今やいいトシをした大人の間にも蔓延していて、「この程度のモノイイでここまで怒るか」と言いたくなるくらいに幼児的な言質が横行している。博多の「悪口文化(日常の挨拶が身内の悪口なのである)」の中で育ってきた身にしてみれば、「バカ」程度のモノイイで激昂する人間には、「あんたら、いくらなんでも苦労ってものをしなさすぎてんじゃないの?」とイヤミの一つも言いたくなってしまうのである。更に念のために注をつけておくが、私は「他人の悪口を言った人間」に対してしか悪口を言ったことはない。それなのに怒って噛み付いてくる人間は、自分は悪口を言いっぱなしなくせに、自分が言われることについては全く無自覚なバカなのである。責任感もなければ覚悟もない。
ネットに限らず、「発言」には本人がどうあがこうと、「責任」というものが伴ってくる。その点、この日記の「無責任賛歌」というタイトルに反しているように思われる方もいらっしゃるかもしれないが、この「責任」というのは、人間にはどうしたって取りようのない「原罪」のようなものなのだ。
これまでにも、「何かを書くことについては“覚悟”がいるのだ」ということを散々書いてきている。その「覚悟」というのがどの程度のものなのか、この日記を読んでる人でもピンときてない人がいるんじゃないかと思うので、改めて書いておくが、「自分の書いたことが、人をひどく傷つけるかもしれない。あるいは死に至らしめることもありえるかもしれない」「そのことで誰かから恨まれて、殺されるかもしれない」という「事実」を受け入れる覚悟なのだ。どんなに表現を抑えようと、どんなに人を傷つけまいと努力しようと、自分の書いたものが万人に受け入れられるということはありえない。どこかで、必ず誰かを傷つけているのである。そして、一度誰かを傷つけてしまえば、その責任など、取ろうったって取れるものではない。傷ついた人の心は、死んだ人間の命は、どうしたってもとには戻らないのだ(だから逆に私は、人から批判されたからと言って簡単に「傷ついたり怒ったり」はしないのである。それがスジというものだ)。
人は生まれながらにして罪を作ることでしか生きて行けない。これは厳然とした現実である。開き直って言うのではない、人は、「心」を持ってしまった時点から、自らの罪を十字架として背負って生きて行くことしかできない動物なのだ。もしもこれまでに誰も傷つけたことがない、迷惑をかけないで生きてきたと嘯く者がいたら、その人の本性は悪魔であろう。ネットに責任転嫁しようとしている人々も、自らの罪から目を逸らそうとしている分だけ、悪魔の側に足を突っ込みかけているのである。
……でも誤解を招くタイトルなのは事実だからなあ、いい加減で別タイトルに変えちゃおうか。
あまり具体的に書いちゃうと、ビビッてしまう人もいるだろうと思って、これまでは「匂わせる」程度でしか書いたことはないが、この際だから書いてしまおう。
私は女房と結婚した時も、「こいつに殺される可能性も覚悟できるか」と自問自答し、納得して結婚したのだ。仮に、私がしげを裏切るようなことをして、しげに殺されることになったとしても、それを受け入れられるか。あるいは、しげや、我々二人の間に生まれてきた子供が人を傷つける行為を働いたとして、その償いにしげや子供を殺して、自分の身も処することができるか。その質問に「諾」と答えられたからこそ結婚する覚悟だってできたのである。突拍子もないことや過激なことを言ってるように思う人もいるかもしれないが、うちは親もそういう考えの持ち主だったし、死を常に身近に感じていた戦前世代の人の多くはそれくらいの覚悟はしていたのである。少なくとも人間と人間の絆を本気で考えるのならば、「死」を覚悟しないものは全て偽善でしかない。特殊なことを言っているわけでもなければ、威張ってモノを言っているのでもなくて、「覚悟」をすることが人としての「最低限の礼儀」なのである。
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06月02日(水)
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