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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■思い返すことども。
 階段を登ってきただけで、てっきり私が運動してきたものだと思われて、「よく続いてらっしゃいますね」なんて言われてしまうのである。「いや、なかなか体重が減りませんで」と頭を掻くのだが、実際、体重がずっと微増しているので、ヤバイのである。食餌制限もそうだけれども、何とかして運動しなくっちゃなあ。


 ふと、気が向いて、栗本薫の『時の石』を読み返す。
 高校生のころ、これを読んで感動し、ボロボロ涙を流した記憶はあるのだが、何分もう20年以上も前のことだから、細かい内容は忘れている。さて、このトシになって読み返してみて、再び感動できるものだろうか、と思って読んでみたのだが、別の意味で何か切なくなってしまった。
 「時の石」というのは「精神的タイム・マシン」とでもいうものである。いつ、誰が、何のために「そこ」に置いたのか分からないが、偶然、現代の高校生がそれを手に入れ、再び帰ることのない「精神の旅」へと旅立ってしまう……。ラストに栗本さんらしく、ホモを匂わせるような描写もあるが、読んだ当時はまさか栗本さんが「筋金入り」だとは思いもせず、そのほのかな終わり方に胸が締めつけられるような切なさを覚えたのだった。
 今はさすがにそういうことはない。読み返してみて、「ああ、こんな“大甘”な物語だったんだ」と、その粉飾の過ぎる文章に閉口してしまうくらいである。
 では、何が切なかったか、というと、作中にほとんど何の注釈もなくオタクネタが散りばめられているところなのである。
 キャラクターの一人のガリ勉君が、「藤波」と仇名をつけられる。これは、柳沢きみおの『月とスッポン』というギャグマンガに登場するガリベンくんの名前なのだが、そんなことをいちいち説明しなくてもよいくらい、「藤波」というキャラクターのことは、当時のマンガファンならば誰もが知っている「共通言語」として機能していたのである。しかし、今や古本屋ですら入手困難であろうこのマンガのこのキャラは、もはや「わかる人にはわかる」というレベルでしか思い出されなくなってしまっている。『時の石』では、そのガリ勉くんが更に「フジっこ煮」とからかわれる。これは、江口寿史の『すすめ! パイレーツ』のギャグを踏襲しているのだが、もうここまで「超有名」なネタだと、江口の名前はおろか『パイレーツ』というタイトルすら紹介されない。それくらい、この「フジッこ煮」のネタは、「周知」の事実だったのである。
 もちろん、当時だって、「マンガを読まない人々」は存在していた。しかし、そんな人間を栗本薫は読者として全く想定していなかった。読者もまた、そんな栗本薫の態度に明らかに「仲間意識」を感じていた。今思えば、栗本薫にそういったシンパシーを感じていた読者は、まだそう名付けられてはいなかったが、まさしく「オタク」だったのである。
 今の栗本さんならば、こんな「濃い」と言ってもよいネタを堂々と振って、それでいて平然としていられはしないだろう。当時はそれが出来たというのは、まだマンガが今ほどには「拡散」していなかったからだ。
 あのころは、過去のマンガもまだ殆ど絶版になってはいず、ちょっと大きめの書店に行けば、昭和20年代、30年代のマンガだって遡って読むことができたし、売れているマンガ雑誌も限られていて、現在進行形のマンガの大半を読むこともまだ可能だった。マンガの裾野が広がりに広がってしまった現在、それは到底不可能なことである。
 だから、あのころのマンガファンたちは、マンガが世代間も越える「価値」を持ちえるだろうと、信じて疑わなかった。それはもう、今でははかない「夢」である。マンガファンどうしでも、話が通じない、意見が合わずに敵対する、そんなことは日常茶飯事になってしまった。同じマンガファンだというのに、どうして許し合うことが出来なくなってしまっているのだろう? だから私は切なくなってしまったのである。
 ……寒い時代だとは思わないか(これももう、誰のセリフだかわかんない人もいっぱいいるんだろうなあ)。

05月31日(月)
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