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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■西手新九郎は「心の遊び」に留めておこうね/『アレクサンドロス 〜世界帝国への夢〜』(安彦良和)
以前、故池田満寿夫が「写楽」の正体を歌舞伎役者・中村此蔵だと推理した時に、故吉行淳之介が「真実がどうあろうと、私の『写楽』はこれで決まり」と断言したが、「歴史認識」とかたいそうなことを言う人は多いが、結局はそういうものである。その点、歴史を物語として綴ろうとしている『戦争論』の小林よしのりの基本姿勢には賛成している。ただその内容には賛同していない。そこで語られている「物語」が杜撰で面白くないからだ(『戦争論』は全シリーズ読んだけど、感想を書かないのはそういうワケ)。
アレクサンドロスと言うかアレキサンダーと言うか歴山と言うかイスカンダル(^o^)については、以前、なんだかなあ、な、角川アニメがありましたが、その伝で行けば実像とどんなに違っていても、安彦さんの描く彼は実に「面白い」。
たった1巻であるために、最大の敵であるペルシャ王ダレイオス三世との対決のドラマがいささか薄く感じられるキライはあるが、夢多き少年が疑心暗鬼に躍らせられ、かつての忠臣を粛清していく暴君と化していく過程は、安彦さんの「王もまた人間」という視点がハッキリしていて、安彦さんの「歴史家」としての思想基盤もここにあるのだろうと察せられる。
それを象徴しているのが、やはりその粛清の対象者となった従軍歴史家、カッリステネスであろう。安彦さんはこの人物に随分思い入れがあるようで、そのキャラクターデザインもどこか安彦さんの自画像に似ている。
哲学者アリストテレスの甥にして、アレクサンドロスにとってのホメロス(もちろん『イリアス』『オデュッセイア』の作者ですね)たらんとするカッリステネスは、堂々と「見てきたようなウソを書く」と断言し、アレクサンドロスを美化した「歴史」を書き、「アレクサンドロスの名声は後世にボクの書いた歴史として伝えられるはずサ」と嘯く。しかしその彼が、途中でアレクサンドロスの歴史を書くことをやめてしまうのだ。
物語は常にそれを支えるテーマたる「思想」を必要とする。わかりやすいのは日本軍における「大東亜共栄圏」であろう。あれを単純に「幻想」と呼ぶのは簡単であるが、適切なことではない。そう断定してしまえば、人間の思考は全て「幻想」にすぎないとしか言えなくなる。アレクサンドロスの「東征」には、初め「蛮族ペルシャの侵略を打倒するギリシャの聖なる戦い」という「思想」があった。しかし、エクバタナの地をダレイオスが逃亡し、コリントス同盟が解散されても、アレクサンドロスは執拗なペルシャへの「報復」を続けた。そしてその時点でカッリステネスは「歴史」を書くことを止めたのである。
ダレイオスをついに倒したアレクサンドロスは、その後継者としての地位を喧伝するためにペルシャ式の礼拝を自分に行うよう、家臣たちに求めた。それを唯一拒絶したのがカッリステネスである。既にそのとき、忠臣たちの粛清は始まっており、自らもまた処刑されることを彼は覚悟していただろう。アレクサンドロスはペルシャ式儀礼を行うことを廃止したが、カッリステネスは「王暗殺計画」の嫌疑をかけられ、逮捕され、行軍の最中に衰弱死する。
彼は最後に、この物語のもう一人の語り手、後のトラキア王リュシマコスにこう語る。「アレクサンドロス。思っていたよりも不可解な男だったが、所詮人間だ。あれもいずれ死ぬ。だが歴史を作った。それは間違いない。すべて書き残すつもりだったが手に余った。残念だ」。
このセリフはもちろん、安彦さんの「創作」だろう。そういう思想でカッリステネスがアレクサンドロスの歴史を描いていたとは限らない。しかし、「所詮人間」と言うその脆弱さ、「歴史を作った」「手に余る」ほどの強靭さと壮大さ、その二律背反した性質こそが、人の持つ「謎」の本質であり、だから我々は人と歴史とに「夢」を抱いて行けるのだろう。
安彦さんの思想自体には充分に「真実」と「普遍性」があると思う。虚構と真実とは決して相反するものではなく、人間の、歴史の、表裏一体となったアニメーションうちわの両面のようなものだ。死者は常に「神」に祭り上げられる。しかしカッリステネスの跡を継いでアレクサンドロスの偉業を語り継ぐリュシマコスもまた断言するのだ。
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09月15日(月)
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