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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■言論にはリスクが伴うということ/映画『羅生門』
私も『羅生門』を初めて見たのは比較的遅かった。『七人の侍』も『用心棒』も『天国と地獄』も高校のころまでに見てはいたが、『羅生門』はテレビ放送を見逃すことも多く、初めて見たのは大学の終わりごろか、最初の職場に就職して間もないころだったと思う。それでももう20年近く昔のことだ。
当時、天神の西通りに「キノ」という小さな名画座があって、そこで『ちゃんばらグラフイティー斬る!』『素浪人罷り通る』『羅生門』の三本立てで見たのが初見である。小さなスクリーンではあったが、スタンダードサイズのこの映画を見るには充分だった。三船敏郎の躍動、京マチ子の妖艶、それにも増して虚偽を語らねば脆弱な自己の心を守れぬ人間の愚かしさがかえって愛おしく思われた。
それから何度この映画を見たか知れない。そのたびごとに新しい発見があるのだが、今、私の『羅生門』に対する評価は複雑なものになっている。それはやはり芥川龍之介の原作にない、黒澤明オリジナルの第四の結末に起因していることなのだが。
この映画を広義のミステリーと解釈すれば、この結末に触れることはネタバレに属することなので喋りにくいのだが、少なくともそれまでの三人の語った相矛盾する物語、盗賊多襄丸が、真砂が、金沢武弘の霊が、なぜウソをつかねばならなかったのかをうまく説明している点では実によくできていると思う。
ただ、「うまく説明ができている」からと言って、本当に彼らがそのような状況に立ち至ったためにウソをついたのだ、ということを証明することはできない。全ての被疑者がウソをついているなどという状況が非現実的である以上、納得のできる説明などは本来ありえないのである(たとえ現実にそのような状況がありえたとしても、信じがたい出来事であることには変わりがない)。
芥川の原作はまさしく、「ありえない現実」をあえて具現化して見せたことによって、人間存在自体の虚構性を照射している点にその非凡さがあるのであり、これは本来、「寓話」の手法であって、映画に向く題材ではない。真相が分らないからこそ成立する物語に、第四の物語は本来蛇足なのである。
もう一つ気になるのは、これが裁判劇というスタイルを取っているために、こんなに三人の証言が違っていたら、判決はどうなったのだろうと、そういうことが気になってしまうのである。これが第四の結末が示されていなければ、「これはまあ、寓話だから」ということでそんな瑣末なことは問題にしようとも思わなかったろうが、映画が一人一人の人物をリアルに追いかけてしまっているために、どうしてもそういった現実的な問題にまで注意が喚起されてしまうのである。
じゃあ、『羅生門』はつまんない映画なのか、ベネチア映画祭グランプリは内実を伴わない形だけの賞に過ぎないのか、というと、そうではないから複雑なのである。
『姿三四郎』も含めて、「わかりやすいエンタテインメント」も黒澤明は数多く作っているが、その本質的な部分においては、極めて観念的なものを持ってもいる。黒澤さんの場合、その思索部分についてまで「分りやすく」語ろうとするために、ともすれば映画が説教臭くなってしまうし、黒澤さん自身が「善の人」と錯覚されてしまいもする。
『夢』の「水車のある村」なんか特にそんな感じでしたね。アンタ夢ん中でまで人に説教してんですかと。けれど、そういう「説教」の要素の少ない「日照り雨」や「桃畑」に比べて「水車のある村」がそんなに遜色のある作品かというと、決してそんなことはないのである。
黒澤さんの説教は優しい。これを辛気臭いとか古臭いとか、煙たがったりするのはただの鈍感であろう。
『羅生門』の最後、あの捨て子のエピソードで、杣売りの志村喬が口にする「俺のところには子供が六人居る。しかし、六人育てるも七人育てるも同じ苦労だ」は最後の最後で「ウソ」をついた杣売りが口にするからこそ説得力があるのだ。黒澤明を単純な善悪二元論の人と見るのは見方が甘い。
そう言えばゆうきまさみの『パトレイバー』のラストでバドを引き取ったブレディ警部もこれと似たようなセリフ言ってましたね。『羅生門』のファンだったって裏設定があるのかな。
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09月13日(土)
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