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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■神ならぬ身なれば/映画『不連続殺人事件』/DVD『レトロスペクティヴ シティボーイズライブ! 1992−1994』
それがダメ、というなら、社会は少年の更生に関して「責任」を持つしかない。地域が、彼に関わる人全てが、何らかの形で彼の一生の一部を引き受けなきゃならないことになるのである。その可能性を考えずに、法がどうのと好き放題言ってるやつの意見なんぞ、一片の価値もないのだ。
CS日本映画専門チャンネルで録画しておいたATGアーカイブ『不連続殺人事件』を見る。
坂口安吾の日本推理作家協会賞受賞作に惚れ込んだ曾根中生監督が原作に忠実に映像化。1977年公開。
脚本に大和屋竺・田中陽造・曾根中生・荒井晴彦の4名が名を連ねているが、ストーリー構成もセリフもまさしく原作そのままである。探偵小説として無類の完成度を誇っている作品だから、イジリようがなかったのかもしれないが、正直な話、楽な仕事してんなあ、という印象は否めない。小説をそのまま引き移しても映画になるはずもなく、昔見た時にも思ったんだけれど、演出がなんともヨワイのである。
安吾自身はこの小説のトリックを独創的なものと主張していたが、実は彼が尊敬してやまない海外の某作家のいくつかの長編のトリックを頂いている(タイトルは未読の方のために隠しときます)。それを喝破した横溝正史は、文士の余技にプロの探偵作家が負けてたまるか、それじゃあ、オレが同じトリックを使って「上をいくもの」を一つ書いてみせようと、更に創意工夫を凝らして代表作の一つとなる金田一耕助ものを一作、安吾風のファルスを一作、モノにした。それくらいポピュラーなトリックだから、すぐに見破れそうなものだが、どっこい、原作の方はそう簡単にはいかない。
推理作家協会賞授賞式で、江戸川乱歩は、この小説の最大のトリックは、安吾の意図したソレではなく、安吾の文体そのものにある、と言った。あの「無頼派」の文体によって描写される人物がいずれも俗悪かつ淫靡で、もう誰が犯人でも構わんじゃないかという印象を与える点がスバラシイというのだ。
一見、ホメているようではあるが、この乱歩の指摘は、「アンタの考えたトリックは先例があるから威張れたもんじゃないよ、賞をやるのはアンタが無意識で書いてる文章が物語を錯綜させる効果を偶然あげていて、これも一つのトリックと解釈できるからだよ」と言ってるのに等しいのだが、安吾自身はこの受賞をすごく喜んでいたそうだ。おめでたいことだが、微笑ましくもある。
問題は映画である。
安吾の文体そのものがトリックだとすれば、映画はその文体を映像にいかにして移し変えるか、ということに腐心しなければならないのだが、そこでこの映画は決定的なミスをしてしまった。原作に忠実だからではない。ほんの少しだけ、「原作にない余計なシーン」をつけ足してしまったのだが、これがミステリ慣れしている人間から見れば犯人バレバレのヘボ演出だったのである。探偵小説の機微を知らない演出家に作らせるとこういうことになるのだが、実際、テレビの2時間ドラマの類ではこの手のヘボ演出はやたら多いのだ。
面白い偶然はあるもので、この『不連続殺人事件』の元ネタの一つとなった某作家の小説が、翌年映画化されて日本にも輸入されたのだが、やはり「原作にない余計なシーン」を付け加えていた。その原作を私は当時はまだ読んでいなかったのだが、「全く同じ映像」が展開されるので、そのシーンが出た瞬間にトリックを見破ってしまった。二作を比較すると二つの作品のトリックが同一であることが簡単に分かる。その海外映画はミステリとしての評価が案外高いのだが、そういう理由で私は今に至るも失敗作だと思っている。
それにしても二作の監督が「創造した」はずの演出法が、全く同じであったというのは、映像作家としてもちょっと問題なのではなかろうか。もちっとアタマは働かなかったのかと情けなく感じることである。
本格ミステリが必ずしも映像に向かないとは思わない。ただ、映画監督というのはどうしても「映像」のドラマを優先してしまうので、ミステリとしての要素は簡単に破綻する。それを両立させる方法を案出できないならミステリ映画を撮ろうなどと思ってはいけない。
でも、そんなにつまんないと言うほどではないのだ、この映画。
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07月23日(水)
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