ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491684hit]

■AIQ(オタク・アミーゴス・in・九州)始末/DVD『ノストラダムスの大予言』
 いきなり平均寿命を引き合いに出してくるのもヘンだけど、この二人が「いかに老後を過ごすか」の課題として恋のさやあてを仕出かしたような決めつけ方もいい味。上原謙対上原謙(^o^)。

> 捜査関係者は「70代男性が50くらい女性と交際というのは聞いたことあるけど、20代とは…」とア然としていた。

 川田順の「老いらくの恋」は60代と40代だったな。
 けど、70代と20代の関係ってのも結構あるんじゃないかな、「ア然とする」ほどのことじゃないと思うが。
 「老後の性」って、日本文学のテーマの一つだったりもするしね。川端康成の『山の音』とか、谷崎潤一郎の『鍵』『風癲老人日記』。
 1972年にガス自殺した川端康成の少女との恋愛は、臼井吉見の『事故のてんまつ』にすっぱ抜かれたけど、まあ若い頃から少女趣味だった人だし、まるで意外性がなかったね。……てことは私、九歳の頃にはもう『伊豆の踊子』読んでたのか。ビックリ。


 午前中、眼科で再び目を見てもらう。
 治療後の経過、とりあえず裂孔は広がらずに収まっているとのこと。相変わらず紐はぶらさがってるし、光が時折目の下を流れてるんだが。
 次の検査はまた2週間後。


 夕方7時から、エロの冒険者さんの事務所で、AIQの精算会。
 AIQはこれで一旦解散して、次回があるとすればまた再結集ということになるが、さて来年があるかどうかは正直なところ分からない。オタクアミーゴスのお三方も、それぞれの拠って立つところが随分ズレてきているのは最近の活動を見ていれば見当がつく。
 唐沢俊一さんもいつぞや日記に書いていたが、「ネタを紹介する形」でのオタクアミーゴスの活動はひと区切りついてしまっているのである。

 「地方発信の文化がもっとあっていいのではないか」と唐沢さんは仰っていたが、福岡・博多は、戦後は東京追従型の文化を築くことで復興を果たした経緯がある。だいたい「オタアミを福岡で」というのも東京文化の移入だ。これまで五回、オタアミを開催してきて、お客さんに「ネタの提供を」と呼び掛けてきたが、福岡の観客からは全くと言っていいほど反応がなかった。福岡のオタクは薄いと言われても仕方がない。
 みんな、よそからのカリモノだけでも、充分に楽しいのだ。福岡では、今や独自の文化を発信して客を寄せることは殆ど不可能なくらいに伝統が断絶してしまっている。私がしょっちゅう「博多は」「博多は」と口角泡を飛ばして言ってるのは、実のところ『大鏡』が貴族文化の終焉をひたすら懐かしんで「昔はよかったなあ」と愚痴っていたのと同じく、ただの老人の繰り言でしかないのである。
 「そんなことはない、博多にだって新しい文化は生まれている」と主張する人たちもいるかもしれないが、私にはとてもそうは感じられない。例えば福岡には、地元劇団が東京に匹敵するほどに数あると思われるが、博多を舞台にし、博多弁で演じられている芝居はほんの一部だ。確かに今の若い人たちは博多弁を使わなくなってきているが、でも共通語に完全に転化してしまっているわけではない。なぜ自分たちの言葉で物語を語ろうとせず、共通語もどきの芝居ばかりを作り続けているのか。それが「新しい文化」と言えるのか。博多座の公演だって、殆どが東京の舞台の巡回である。
 「山笠」や「放生会」、「博多にわか」なんかをネタにして「オタアミ」と絡めることが果たして可能だろうか。仮にそれを実行したとして、既に「終わっている」ことがハッキリしているモノをネタにして、果たして面白いものになるかどうか(70代以上の生粋の博多人は、伝統行事のほとんどが商店街のお祭りに成り果てているとしか思っていない)。
 博多出身の著名人とオタアミのみなさんとを絡めてトークショーという手も考えられなくもないが、ゲストを招聘しての公演は、シロウトのボランティアで構成されているAIQでは手に余るだろう。小林よしのりとかタモリ、小松政夫さんなんかと絡められたら面白いとは思うんだけれど、それは私がまだ「昔の」博多人だからであって、「今の」博多人には恐らく殆ど魅力のあるキャスティングではあるまい。よっぽどコンセプトを練らないと、失敗は目に見えている。

[5]続きを読む

07月12日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る