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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■ラブラブブラブラ/『逆説の日本史6 中世神風編』(井沢元彦)/『バロム・1』1巻(さいとう・たかを)ほか
生まれ故郷ではあっても、私は博多じゃ死にたくない。「大濠公園に死体が浮かび」って汚そうだし、「福岡タワーから飛び降り自殺」なんてお笑いである。なんで死んでまでギャグ飛ばして世間にサービスしてやらにゃならんのか。
いや、なんかね、福岡や博多って、人が死んでたらなんか可笑しいような、それくらい「生」のエネルギーがムダに横溢してる町なんよ。だからどこで死んでもなんか滑稽になっちゃうんである。
「華厳の滝」のような「自殺のメッカ」が生まれるのはなぜか、ということを考えれば、この「お気に入りの死に場所」について考えることは、決して不謹慎なだけの行為ではなかろうと思う。
こないだ読んだ柳美里の言い分ではないが、「自殺」という行為が何らかの意味での「自己完結」であることだけは間違いがない。そこで全てを終わらせるのであるから、自殺者はたいていそこに自らのドラマの終焉としてふさわしい「様式」を見出すものだ。
それは例えば「遺書」を残すという形であったり、死んだ「場所」であったり、首吊りとか入水とか列車飛びこみとかいった「手段」であったりする。自然死と違って、「自殺」は自らの死を演出できる点において、極めて演劇的である(だから柳美里が「自殺」に夢想を抱く気持ちも共感できなくはないのだ)。しかも自殺者は、数限りない選択肢があるにも関わらず、必ずしも「美しく」死ぬとか「安らかに」死ぬことばかりを選択するとは限らない。醜く、苦しむ死をあえて選択する自殺者もいるのだ。だとすれば、自殺者には自殺者だけにしかわからぬ、「この死に方がいい、これしかない」という特別の論理があるのだと解釈せざるを得ない。
三人のうち、誰も「私、埼玉なんかじゃ死にたくない」とは言わなかったのだ。しかも場所は相当なボロアパートらしい。廃墟マニアでもあるまいし、なんでそんなところで死んだのか。もし、今回の「死に場所」が必ずしも死を演出する絶対要因ではなかったとするなら、彼らを「死」にいざなったものはなんであったのか。
「ネットで知り合った自殺志願者どうし」というシチュエーション自体が、既に彼らにとっては充分魅惑的なものだったのかもしれない。真相は死んだ本人たちに聞いてみなくちゃわからないことだが、そこでふと気になったのは、山本弘さんは、このニュースをどう聞いただろうかということだった。
山本さんは『宇宙を君の手の上に』という短編で、ネット上の人間関係が、一人の自殺志願者を救う物語を語った。生か死か、その行き付く先は違っても、ネットを通じた人と人との絆が、生身の人間どうしの付き合いと変わるものではない、という視点においては、山本さんのネットについての認識と、この自殺者たちとの意識の間には共通項があると言える。ぶっちゃけた話、生を希求するエネルギーと、死に埋没するエネルギーとは実は同質のものなのではないか?
まあ、こんな不躾な質問、山本さん本人に向けられるはずもないが、生はその背景に死という絶対的な事実を踏まえた上でなければ語れるものではないと思う。山本さんはそのことを充分ご存知の上で創作の筆を取っておられるだろうとは思うんだが、そこまで突っ込んで山本さんの作品が論評されることが少ないのが
残念だと思う。
『千と千尋の神隠し』が第75回アカデミー賞の長編アニメ部門にノミネートされたけれども、まあ受賞するのはほぼ確実ってとこだろう。もっともアカデミー賞は会員による投票制だから、余りに本命が強すぎると同情票が他作品に回って大番狂わせが起きるってこともあるから、最後まで目は離せないんだが。
もっとも対抗馬が『リロ&スティッチ』とかだからなあ。予告編しか見てないけどヒドイ出来だし。これで受賞できなきゃ、日本人バッシングがあったと疑われかねないから、多分、番狂わせもなかろう。で、受賞記念で英語版の凱旋興行、ダヴェイ・チェイスちゃんのかわいらしい声を聞かせてもらいたいものである。
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02月12日(水)
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