ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491706hit]
■ノロい呪い……座布団取っちまいなさい(^_^;)/『桃色サバス』7巻(中津賢也)/『蟲師』3巻(漆原友紀)
オビには大友克洋の『幻想と郷愁が静かに語られ、心に沁む作品です』の推薦文も。うーん、一般的には大友さんが誉めると「箔が付く」って感覚なんだろうなあ。私ゃ逆に、Dr.オートモに誉められても「贅肉が付く」だけじゃないかとしか思わないが。「こんなに太れる!」……さあ、何人がこのギャグ覚えてるか(^o^)。
『錆の鳴く聲』(「錆」はホントは旧字体)。
カラーページ付きである。この色遣いがまた素晴らしいんで、できれば1巻もカラー付きで再販してほしいくらいだ。
本作のヒロイン・しげの歌う聲は、「小柄な体に似つかわしくない、太くかすれた、けれど、甘く渋みのある残響を持つ、不可思議な響きの声」である。その声が人の体に目に見えぬ「錆」を涌かせ、村人たちの四肢を不自由にしていく。そのことに気付いたしげは、自らの声を封印するが、村人たちは自分達の病の原因がしげにあることに薄々気付いている……。
緊張感あるなあ。
『蟲師』はどの話もどこかに人間同士のディスコミュニケーションがあり、それは果たして越えることのできない壁であるのか、という問いかけがある。何しろしげの声は生来のものだ。自分自身の努力でどうにかできるものではない。人を傷つけたくなくても、自然に傷つけてしまわずにはいられないのである。だから、しげはこれまで「詫びる」ことでしか生きてこられなかった。
読者はしげを哀れむか? そうではないだろう、「人を傷つけずにはいられない」というのは、人間の持つ「業」であるからだ。意図せず人を傷つけたことのある人ならば、しげの悲しみの重さと、それに耐えようとする健気さが理解できるはずだ。我々はみな、しげと同じように「罪の十字架」を背負っているのであり、たとえ救われる日が来なくてもやはり生きていかなければならない存在なのである。
しげが救われるのはある意味では偶然である。
もしかしたら、しげはあのまま村人たちに責められ、殺されていたかもしれない。しかしそうだとしてもしげは決して村人たちを恨んだりはしなかったに違いない。
その力強さが我々を勇気付けてくれるのだ。
もう一つ、このマンガについて触れておきたいことは、「音」の表現についてである。
マンガで「音楽」を表現することの難しさを、昔、『サルまん』で竹熊健太郎は語っていたが、そりゃ楽譜で表せるような音楽を伝えることはムリに決まっている。いくら背景に音符を書きこんだって、楽譜を読めない人にはただの落書きにしか見えやしない。
ではマンガに「音」を伝える能力が全くないのかと言うと、そんなことはない。文学の神髄が「詩」であり、楽譜が存在しなくとも「詩」が単独で「音楽」でありえるように、マンガもまた読者の脳に働きかけて「音楽」を喚起する力があるのである。
そこで、「錆が涌く声」という設定の素晴らしさについて考えてみたいのだ。
いったい、みなさんは「錆」の涌く声というものがどのような声なのか、想像がつくだろうか? 「花」が咲く声でもなければ、「虫」が涌く声でもない。そんなのは「きれいな声だろうな」「汚い声だろうな」というだけのことで、我々の想像力を少しも刺激しない。
しげの声は、人々を病に陥れ、そしてまた人々を救う声でもある。善でもなく悪でもなく、幸福と不幸をともに内包した、まさしく「神秘」の声である。こんな「声」は想像の中にしか存在しえない。実際の楽曲で表せるものではない。だがしかし、我々はしげの声が「蟲」となって山々や村々を経巡るのを見たとき、確かに彼女の「声」を聞くのである。
これが「マンガ」だ。マンガによってしか表現できないものだ。
しげの声は村を救ってのち、変質する。
「潰れ果てたが奇妙に美しい聞き覚えのある唄声」に。恐らく読者もみな、その声を聞き、その美しさに気付くことだろう。
一つの短編にいちいちこんなに長々と書いてちゃいつまで経っても終わらないのでほかのはごく簡単に(^_^;)。
『海境(うなさか)より』。
二年半前、沖に出て妻をもやのような蟲に取りこまれた男・シロウ。
時を経て、彼はまた沖にあの時の「もや」を見る。
[5]続きを読む
12月24日(火)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る