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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■つらいよねえ、やっぱり/『“It”(それ)と呼ばれた子 幼年期』(デイヴ・ペルザー作/田栗美奈子訳)
 読んでいて母親の折檻の異常さ、特にデヴィッドを風呂場に閉じ込めてガスで苦しめるなんてのは戦慄ものなんだけれど、そういう描写を読まされるたびにどうにも疑問が涌きあがって、素直に「かわいそう」とか「ひどいなあ」とか思えなくなってしまうのである。つまり、母親の虐待の動機が全く語られない点、それと父親の見て見ぬフリ、この二点が引っかかって、なかなか読み進められないのである。
 もちろん、子供であるデヴィッドにもそれはわからない。彼はいつの間にかどういうわけか兄弟三人のうちたった一人だけ、虐待され始めたのだ。彼が考えていたことは、現実に目の前にある虐待という事実からいかに逃げるかということだけで、「どうして自分が?」と思う余裕すらなかったのである。
 読者は受け入れるしかない。
 親は子を憎み、殴り、刺し、虐待し続けるものなのだと。父親の放置も緩やかな虐待であろう。
 なぜそんなことをするのかと両親に聞いても、恐らく彼ら自身、答えられないだろう。本当は、理由などないのだから。親が子を愛するのに理由がないように。

 私もかつて、子供のころ、父親から「虐待」と言ってもいい折檻を受けたことがしばしばあった。難しいのは、一方で父親に熱愛されたことも間違いない事実として認識していることだ。この矛盾をどう理解すればいいのか?
 母親は私に「お父さんはアンタのことがすごく好きだから、自分の思い通りに育ってくれないのが悔しいんよ」と説明した。
 だからってなあ、殺そうとまでするかなあ。酔っ払ったオヤジに鉄板でアタマ殴られたこともあるんだぞ(私は事故で頭蓋骨にヒビが入っているので、ショックで死ぬ危険もあったのである)。親は子にそんなことまでするのか。いや、酔っ払ってるからこそ本性が現われたのかもしれないが。
 子供のころの私にとって父親は恐怖の対象であった。父と話ができるようになってきたのは皮肉なことに父が病気で老いさらばえてきてからである。今ならケンカして私が負ける心配はない。

 デヴィッドの母親がデヴィッドを憎んで虐待していたのか、それはわからない。あるいはそれが母親の歪んだ愛情の形だったのかもしれないとも思う。それで死んでしまう子も存在するとしても、やはりそれは「愛情」としか言えない場合もあるのだ。
 愛情なんて、もともと人と人を繋ぐものとしては極めて不確定かつ危険なものである。移ろいやすく、アテにならない場合も多い。「家族の絆は愛情」とか、能天気に言い放って平気でいられる人間が多いのは、実は潜在意識の奥底で、その絆が簡単に解けることを知っていて、リセットの準備をしているのではなかろうか。
 でなきゃ、どうしてこんなに欧米でも日本でも離婚率が高くなっているのか?
 子を育てるシステムとして、「個人個人の愛情によって結ばれた家族」というのは、実は極めて持ちが弱いのである。『オトナ帝国の逆襲』でしんちゃんは「ずっとみんなといたいから」と叫んだが、実は原作マンガでは「ずっといっしょ? それもちょっとな」と現実的なことを言っている。ハタチを過ぎても親元から離れないパラサイト・シングルが増えている状況を、果たして「家族の絆」などという甘いコトバで語れるのか?
 疑問が膨らんでしまうのは、デヴィッドの母親は、息子を一生自分の手元から離すまいと思っていたのではないか、という気がするからである。デヴィッドがオトナになって「自立」すれば、自分の行為が白日のもとに晒されるのである。そうならないようにする意図がなければ、どうしてあれほどの虐待を続けられものだろうか。母親は「虐待」という絆で、デヴィッドとの永遠の関係を夢見ていたようにすら思える。実際にデヴィッドは、その虐待される関係から抜けだし、救いを求めることがずっとできなかったのだ。
 これが悲劇でなくてなんであろう。
 子供って、できるだけ早く自立させるもんだと思うんだけれど、違うかね。少なくとも「優しさ」とか「思いやり」とか「気遣い」とか「助け合い」が「強制」される世の中って、すごく気持ちが悪いと思うんだけど、どうかな。

12月18日(水)
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