ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491718hit]
■しとしとぴっちゃんしとぴっちゃん/アニメ『プリンセスチュチュ』第1話/映画『ピンポン』
こうして、あひるは王子様を助けた。
けれどドロッセルマイヤーの不気味な声が再び聞こえてくる。
「でも、お前はただのあひるなんだよ」
そう、あひるは、本物のあひるになっていた。
うわあ、なんだか女の子の願望を突き放すような冷たいアニメだなあ。
御伽話のお姫様は、普通、王子様に救われるのを待っているものだ。
『少女革命ウテナ』では、お姫様を助ける王子様がいないから、お姫様が王子様になろうとした。「でもいいの? それで」と突っ込まれながら。
本作では既にお姫様自体、救われる側にいない。王子様の方が、お姫様が来るのを待っているのである。
けれど、お姫様は実はただのあひる。みにくいあひるの子。だからこそ「お姫様」のつもりになって、自分が助けられる夢に浸っていたかったのに、気がついたら自分が王子様を救う側に回らなきゃならなくなっていたのだ。
え〜、女性の方にケンカ売るような解説になっちゃいますが、要するに女性の客観的な価値って、美貌と若さしかないって話なんですよ。それがあるからこそ、それにすがって、女の子は王子様を「待って」いられた。けれどアナタに美貌も若さもなかったらどうします? ただのあひるだったら。「王子様を救う」って新たな価値を持つしかないんですよ。自分をプリンセスだと信じて。
どうですか? アナタに王子様は救えますか?
久しぶりに毎週がタノシミなアニメが出てきました♪ CSに入ってる人はぜひ見てみましょう。
博多駅でよしひと嬢と待ち合わせ、シネリーブル博多駅で映画『ピンポン』を鑑賞。
松本大洋の原作は読んだことがないので、虚心坦懐に見ることが出来たんだけど、映画として多少メリハリがない点や、マンガチックな表現が足引っ張ってる点はあるものの、全体的には悪くない。
マンガと映画の表現は、ムカシムカシ、それこそ天と地ほども違っていた。
手塚治虫の例を引くのは今更だが、まずはマンガ側が積極的にクローズアップやカットバックなどの映画技術をマンガ的表現に組み替えていったのが戦後のこと。70年代あたりになると、マンガ的カリカチュアを映画も取り入れるようになり、双方の「乗り入れ」が頻繁になっていく。もちろんマンガを映画にそのまま持ち込むわけにはいかず、そこにはやはり「映画的処理」というものが必要になるのだが、それはある意味、原作の否定にもなる。そこが原作ファン、映画ファンとの間に確執を生むことにもなった。問題はなかなかに難しい。
具体的に言えば『ブラック・ジャック』の映画化である。大林宣彦の『瞳の中の訪問者』には宍戸錠のブラック・ジャックが、あのツギハギの顔、半白髪に黒マントという姿で登場したが、当然、リアリティのカケラも感じられないヒドイ出来だった。常識的に考えるならせいぜい頬のキズ程度に留めておくのが賢明だろう。しかし、それが手塚治虫のブラック・ジャックではないことは明らかである。
葉っぱをくわえてない『ドカベン』の岩鬼正美、「ちょんわちょんわ」をやらない『花の応援団』の青田赤道なんて意味がないことはわかるが、原作どおりのスタイル、行動を実体を持った人間にやらせれば、結果的には失笑もの、あのテイタラクになってしまうのだ。これだからマンガの映像化は難しい。だからたまに「原作から抜け出たような」イメージの映像化に出会うと、我々は狂喜したものなのである。木の内みどりの水原勇気はよかったなあ(* ̄∇ ̄*)。薬師丸ひろ子の山葉圭や、宇佐美ゆかりの若松みゆきも。なんか単にかわいい女の子ならどれでもいいみたいだが。
『ピンポン』の話に戻そう。
原作を読んでいないだけに、逆にこのへんはマンガの表現そのまんまだなあ、とか、ここはマンガを映画的に改変したんじゃないか、というところがかえって目につく。
[5]続きを読む
08月17日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る