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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■文学を教養で語るな/劇場版『機動戦士ガンダム』四部作/『まんがサイエンス[ ロボットの来た道』(あさりよしとお)ほか
で、「バカでいいじゃん、文学読んでる間は世間の道徳とか倫理とか現実のめんどくさいこと忘れてられるし」ってのが文学を読む一番の動機だったんだよね、江戸期までは。
もちろんそのころも教養派の作家たちはいて、文学は女子供の読むべきものではない、と、ひたすら道徳だの倫理だのを語った作家たちもいたのだが、たとえばその代表のような曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』などは、明治になって教養派の坪内逍遥に「荒唐無稽でくだらん」と貶されるのである。で、逍遥の『一読三歎当世書生気質』は、「表面的な人間観察しかしてない」とまたぞろ教養派に貶されてるのだ(^_^;)。
だから教養主義で文学を語ったって、「あんたまだ人間見えてないね」と批判されりゃそれで終わりなんである。そして、「人間が描けていない」という批判ほど言葉として無意味なものはないってことも、これでわかっちゃうんだよね。そもそも教養主義自体が人間を描く手段としては全く機能できないんだってこと、教養派のアタマのいい人たちはバカなので分かってないのだ。
「説明」で小説は書けんよ。
だから、今、馬琴だの逍遥だのを読むと、トンデモ本としてしか読めないんである。あのね、馬琴ってさ、本気で狐狸妖怪の類が実在するって信じてたやつなんだからね。日記に「双頭蛇が発見された!」とか書いてるやつだし。イマドキなら「ツチノコが発見された!」って喜んでるようなもんだね。そういうのを「啓蒙」のつもりで読本を何百冊と描き続けてった人なんである。教養がどれだけ役に立たないものか、いや、役に立たなければ立たないものこそ面白いという図式の法がよっぽど文学の本質を表してますよ。
WOWOWで懐かしの劇場版『ガンダム』特集、『機動戦士ガンダム』『ガンダムU 哀戦士編』『ガンダムV めぐりあい宇宙編』『逆襲のシャア』と続けて見る。
新作カットがあるとは言え、テレビシリーズの編集版を映画として認めるべきかどうか、というのはいろいろ論議はされてるけれども、結局は出来がよけりゃいいんだよね。
久しぶりに見返してみて、我々「一年戦争世代」(^o^)がファーストしか認めないってのは、単にオリジナルに対する拘りだけじゃないなということに気づいた。最初のころは、モビルスーツに乗ってるパイロット同士が会話するシチュエーションはほとんどなかった。ガンダムとグフの外壁が破壊されて、初めてアムロとランバ・ラルがお互いを認識する。まあ、そんな偶然があるかいってシーンだけれど、そういうムチャな展開にでもしない限り、パイロット同士は会話ができなかったのである。
お互いを知らずに、でも戦う。でもそれが戦争ってもんだ。そういうところにリアルさを感じてたんだけどなあ。その「リアル」が一番明確な形で描かれたのが『0080 ポケットの中の戦争』だったんだけれど、クリスとバーニィが戦う必要がなかったってことも、クリスがバーニィを殺したってことも、知ってるのがアルだけってのがもう泣けて泣けて。『1st.ガンダム』へのオマージュとして最もそのエッセンスを表現出来てたのがこの『0080』だったと思うなあ。
それがもう、後期になればなるほど、ニュータイプがどうのってやつのせいで、ただの観念論の会話劇になっちゃうし。『逆シャア』のセリフの「重み」のなさと言ったらもうどうしようもない。なんで頭でっかちの小学生の感情のぶつけ合いを延々と聞かされなきゃならんかね。
「オトナなんて嫌いだァ!」
はいそうですか。クェスは、もっと惨めに殺してほしかったなあ。
ラストの尻切れトンボ感もすごいよねえ。ヒッチコックか。
マンガ、あさりよしとお『まんがサイエンス[ ロボットの来た道』(学習研究社/ノーラコミックス・820円)。
ロボットは3巻で既に扱ったテーマだけれど、今回再度、というのは、それだけロボットの発達が日進月歩だからだろう。
いやね、私も別に鉄腕アトムのように心を持ったロボットってのはファンタジーだなとは思うけれど、SONYのSDR−4Xみたいに踊ったり歌ったりしてるロボットを見ちゃうと、将来的にはもしや、と期待したくなるよ。
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08月09日(金)
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