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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■幻想のステキな奥さん/『八犬伝』14巻(碧也ぴんく)/DVD『ルパン三世 生きていた魔術師』ほか
「ばくだん」と書かれたメニューがあったので、何気なく注文してみたら、これがニンニクの丸焼き。どこがどう爆弾なのかはよく分らないが、匂いがキツイということなのかな。けれどこんがり焼けているので臭みはなく、むしろ口に含むと香ばしいくらい。熱々の皮をめくると、ポロリポロリと中味が転げてくる。なるほど、このへんが手榴弾っぽいかな。
控え目に食ったつもりじゃいるが、肉は肉。ああ、これでまた体重が……。
昨日今日と、睡魔などにも襲われて、唐沢俊一さんの裏モノ日記も覗いていなかったが、みてみると9日の日記に永井一郎さんの著作に絡めて、教育論を語られている。
「今の教育に力がなくなっているのは、教育を受けた末にどのような未来が開けているのか、具体的なビジョンを誰も子供たちに示せなくなっているからだろう。ならば、教育以外にビジョンを持たせる方法がないのか、と方向性そのものを変えるべきなのだ。教育の必要性を頭から疑わないで教育論を唱えるのは右翼が皇室論を唱えるのと大して違わない。大前提を疑わない議論は意味がない」とあるのを読んで嬉しくなる。
2、3年前、ある人から、「今の日本には教育しかないんだから」という意見を聞かされたことがある。その人は実際に教育関係者だったから、ある意味ご本人の自負かもしれないな、とは思いながらも、そこに一抹の自己弁護のような、あるいは傲慢さのようなものも感じて、「そこまで日本はオサムイかね」と首を傾げたものだった。
変革が必要なのは誰でも分っちゃいるが、どう変革したらいいのか判らない、ヘタに旧来のシステムを変えて、その過程で自分がスポイルされたらかなわない、教育の危機が声高に叫ばれながら、親も教師も国も明確な指針を打ち出せず「生きる力」などという曖昧な概念しか打ち出せないのはそのせいだろう。
だから、「学校なんてなくてもいい」「進学なんてしなくていい」「就職できなきゃ自分で商売始めりゃいい」と、至極マットウなことを言っても、「でもね」と言い返されちゃうのである。
でも、「でもね」なんて言ってるやつに、現代の教育をどうこう言える資格があるとは思えんがな。
マンガ、滝沢馬琴原作・碧也ぴんく作画『八犬伝』14巻(角川書店/ニュータイプ100%コミックス・987円)。
ついに最終エピソード、安房大戦。原作が余りに長大なため、マンガも映画もアニメも、今までここまでを映像化したことは殆どなかったと記憶する。往年のNHKの人形劇『新・八犬伝』くらいじゃないかな。
途中のコマゴマしたエピソードを随時カットしてはいるものの、よくこの最終編まで辿り付いたよなあ、碧也さん。
タイトル変更だの掲載紙変更だの紆余曲折も相当あったし。
そのせいなのだろうか、全体の印象は戦を題材にしていながらどこか涼やかだ。前半にあった、伏姫の悲劇、浜路の悲劇に代表されるような、因果から来るやりきれなさがカケラも見当たらない。何より、八犬士の顔にかつての憂いが全くないのである。
血を分けた兄弟よりも深い契りで結ばれた義兄弟たちがめぐり合えた歓びだろう。関東連合軍を迎え撃つために各所に分散して行きながら、彼らはみな一様に笑顔だ。
自らの優柔さゆえに、玉梓の恨みを買い、里見家に仇を成すこととなった里見義実の罪業、それを償わんと八つの玉に未来を託した伏姫、言ってみれば八犬伝の物語はたったこれだけの親子の確執が、連綿28年間に渡って書き綴られたものだと言っていい。
罪は償えぬほどに重いものなのか、その罰は永遠に与え続けられなければならないのか。馬琴は「因果」という旧来の理念に、ドストエフスキーの『罪と罰』にも似た結末を用意した。碧也さんは馬琴のその心を正しくマンガ化しようとしているように思える。
あと1巻かあ。優しい終わり方してくれるといいなあ。原作は更に「罪」を里美家が負う形で終わっちゃうから。
蛇足。
今回、写植屋さんがシロウトなのか、誤植が目立つのが気になる。特にルビ打ち。「八房(やつふさ)」が「はちふさ」だったり「網乾(あぼし)」が「もうかん」だったり。「もうかん」なんて人間の名前じゃないだろ。シロウトって言うよりただのバカか?
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04月11日(木)
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