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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■それは愛ゆえの殺人か/『孤島の姫君』(今市子)ほか
子供は暴力を振るっていたというが、それは家庭内だけに留まり、外部への犯罪的行為にまでは至っていなかったようである。だとすればやはり今回の殺人は、自分がこれ以上苦しみたくないという、親の、自己本意な行為に過ぎない可能性が高い。
新聞はなんだかステロタイプな親子の悲劇みたいな感じの論調でコラムを締めくくってたが、バカ息子をバカ親が殺したってだけで、琴線に引っかかってくるような話じゃないと思うんだがなあ。なんでこう、大したこともない事件を無理やり悲劇に仕立て上げなきゃならんのか。
ちょっと思い出したことがある。
ウチの母親は、私が子供のころしょっちゅうこう言ってた。
「アンタが何か悪いことをしたら、私もアンタを殺して死ぬよ」。
今、思い返せば、実際にそんな状況になったとして、本当に母が私を殺したかどうかは判らない。
ただ、母親が「本気だ」というコトは子供の私にもビンビン伝わってきた。
法律で裁かれるかどうかってことの前に、私ゃ悪いことしたら自分の親に殺される、そう刷り込まれて育ってきたのだ。
別に、これは異常なことでもなんでもない、昔の親なんて、みんなこんなもんだったのである。ガキ躾るにしても、もうちっと、やり方考えろよ、と文句言いたくはあるが。
そこまで極端なことを言わない家だって、親の「権威」には中身があった。いやね、別に「昔に返れ」って言いたいわけじゃないよ、バカはすぐそう言いたがるけれども。
世間が勘違いしてるのは、その「権威」ってのが、「暴力」とか「家父長制」とかいう、封建主義に根ざしたものじゃなくって、単に「親が子供を育てる覚悟をしていた」だけだってことに気付いてないことだ。
「躾」ってのは「カタチ」なんかじゃない。スパルタがいいか放任がいいかなんて問題ではないのだ。
親と子の心の絆をどう作るかってことを考えりゃいいだけなんだが、その覚悟もないのにぽこぽこガキ作ってっから、殺伐とした事件だって起こるんである。極端な話、親が親のすること、子が子のすることをお互いに納得してりゃ、顔を合わせなくても会話を交わさなくても何の問題も起きないのである。
なんだか私にゃ、事件が起きる家庭ってのが、「あえて事件を起こす火ダネを作りまくってる」ように見えてしかたがないんだがねえ。
風邪を引いてからほぼ十日、ようやく咳も収まってきて小康状態が続くようになった。
まだ、ちょっと空気の流れが悪くなるとげほげほと止まらなくなることもあるが、なんとか持つようになった。ここまで来れば再発の心配もなかろう。
しかし、今回の風邪も長かったなあ。
お仕事はまたしても残業。
それでも早めに片付けとかないといけない仕事をちゃっちゃと終わらせて帰宅。まだ6時だと言うのに、日が落ちてあたりはもう濃い藍色。まだ風はそう冷たくないのに、もう冬なんだなあ。
今日は久しぶりに『クレヨンしんちゃん』に間にあったので、じっくり見る。季節の変わり目なせいか、2本とも病気ネタ。
『園長先生が心配だゾ/熱出し母ちゃんだゾ』。
一本目は、オー・ヘンリーの『最後の一葉』のパロディ。病気で寝ている園長先生が、庭木を見ながら呟いた「あの葉が散ったころには私はもう……」というセリフを聞きつけたマサオくん、早速みんなにご注進する。
マサオくんはいつも「てえへんだ!」って問題を持ちこんでくるガラッ八の役目を引きうけてるが、こういう5人組のコントの役割がちゃんと決まっているところ、『しんちゃん』が正統派コメディの系譜の上にあることの明確な証拠なのだ。
その話を聞いて、カザマくんがみんなに『最後』のスジを話してあげるのだが(いつも思うことだが、カザマくん、幼稚園児のくせに知識ありすぎ)、ネネちゃんが「それってホラーね!」と、意味を読み替えていくギャグが秀逸。
おとぎばなしの読み替えギャグは多いけど、オー・ヘンリーってのは眼の付け所がいい。オチはまあ、別に園長先生は死ぬこともなく(当たり前だ)、その「一葉」の庭木は、しんちゃんたちがハッパが散らないように塗りたくったノリに、風で飛んできた新聞紙やらゴミがくっついて、エライことになっているのであった。
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10月26日(金)
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