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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■夏到来! ……って暑いだけだって/『夢の温度』(南Q太)ほか
面白いことに、男と女の間に「猫」が介在した場合、文学上そこには「悲劇か喜劇か」の両極端しか描かれないのだ。普通の「猫小説」と言うものは余りない。
猫に見入られる、魅せられる、そう言ってもいいと思うが、猫に何か人間以上の神秘性を見出している結果が、そのような小説群を生み出しているのは間違いない。
『吾輩は猫である』の猫は批評家であるし、『三毛猫ホームズ』の猫は探偵だ。これらは喜劇だが、悲劇に目を向けると、それこそ具体例は枚挙に暇がない。日本は特に「化け猫」が『南総里見八犬傅』を始めとして、妖怪モノの定番になっている。
それは、猫の仕草、猫の瞳の変化、それらに我々が人間の無意識を投影し、象徴させてきた結果である。猫の瞳は、我々の心の奥を覗き見る。我々は猫の前で決して心を隠していることは出来ない。猫は「サトルの化け物」であり、また全てを見通す「神」でもある。
だから我々は猫に対しては、心をゆだねるか、拒絶するかの二つの手段しか取り得ない。「悲劇か喜劇か」の原因はそこにあるのだ。
科学が一応、我々の周囲から「不思議」を取り払ってしまったことは、昔のような単純な虚構を我々が生み出せなくなっているということでもある。
私たちの周りには、人を化かすキツネもタヌキもいない。
猫は、唯一今も残っている、実在する「妖怪」なのである。
で、今度のウチのお芝居、「猫」話なわけです。しかも典型的な。
この話に繋げるために今まで前振りしてたのでした。宣伝でどうもすみません。具体的な内容を書かずにお客さんに興味を持ってもらうって、大変なんスから、ほんとにもう。
休憩するヒマもなく仕事が続く。
こういうときゃテキトーに手を抜きゃいいんだろうけど(「手を抜く」という言葉、私ゃ別に悪い意味で使っちゃいない)、かえってハイテンションで仕事しちまうのはなぜだ。自暴自棄か。
晩飯を作る元気も外食する気力もなかったので、コンビニ弁当を買って帰る。
しげが喜んで私の分まで食おうとする。
昼間、買い物して米だけでも炊いてくれてれば、私ゃオカズ作るだけですむのになあ。その程度の家事すらしないやつなのだ、こいつは。
テレビで、幼児虐待して殺した夫婦のニュースを見ていると、「妻は家事を全くせず、家の中は汚く劣悪な環境にあった」とか言ってる。実際、ウチに子供がいたら、この部屋に住ませるだけで虐待行為になるのだということはよく分る。
……せめて毎日ゴミだけでも捨てろよ。
ようやく今週の『少年ジャンプ』をコンビニで立ち読み(困った客だ)。
『ヒカルの碁』、ついに佐為が消えてしまった。
余りにも見事な消え方で、これは単に「ヒカルのそばからいなくなった」とか、「どこか別のところに行った」なんて中途半端なものではない。「虎次郎が佐為のために、佐為がヒカルのためにあったように、ヒカルもまた誰かのために生きるのだろう」……これは、明らかに「死」のイメージである。
だとすれば、これは『ヒカルの碁』にとって、一つの正念場だ。
ジャンプマンガのセオリーに則れば、佐為はこのまま消えたりはしない。ロビンマスクが、紫龍だったか誰だったかが(『星矢』は熱心に読んでなかったから覚えてないわ)、ピッコロがいとも簡単に復活したように、佐為も何らかの形で復活する。
でも、たとえ佐為が幽霊であったとしても、『ヒカ碁』はあくまで現実の物語だ。物語のテンションを落とすまいとするなら、決して佐為を復活させてはならない。そういうところに、作者はこの物語を追い込んでしまったのだ。
佐為がいなくなって、それで物語が続けられるのか、という意見もあろう。
しかし、最重要人物がいなくなってもなおドラマとしてのレベルを落とさずに更に長期連載を続けたマンガがこれまでにもあった。
ちばてつやの『あしたのジョー』、あだち充の『タッチ』。
この二作は、はっきり、ライバルがいなくなったところから新たなドラマが始まっている。
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07月18日(水)
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