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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■イシャはどこだ!/映画『黒蜥蜴』(1962年・大映)ほか
ホームページには乱歩の原作、三島由紀夫の戯曲、新藤兼人の脚本の三つを比較して分析したものを載せようと考えているのだが、さて、完成はいつになることやら。
名探偵明智小五郎役は大木実、『恐怖奇形人間』でも明智を演じているが、どうしてこう「珍品」の明智ばかり演じているのか。
マンガ、半村良原案・田辺節雄作画『続戦国自衛隊』3巻読む。
アメリカ軍をタイムスリップさせ、自衛隊を壊滅させたのはいいアイデアだろう。まともに戦闘すれば侍が自衛隊に勝てるわきゃないんだから、このネタのポイントは、「いかに自衛隊を弱くするか」にかかっているのだ。
そして、この巻でようやく、この世界がパラレルワールドの日本であり、本来の歴史とは関係ない、という設定が出された。
これでもう、怖いもんなしである。歴史が変わるか変わらぬか、あと1巻程度で終わりだろうから、うまいオチをつけてもらいたいものだ。
「ハラ減った、ラーメンでも作って」と女房に頼んだら、「ハンバーグ」を作ってきた。
さて、これはサービスなのか反抗なのか?
唐沢俊一さんもようやく(と言っても、公開から1週間経ってないんだが)『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』をご覧になったようである。
感想を日記に書いただけでなく、唐沢さんにしては珍しく、オタアミ会議室の方にも書き込みをされて、ほぼ絶賛である。
正直言って、唐沢さんがどういう感想を抱かれるか、不安であったのだ。以前から唐沢さんの著書を拝読し、自分と似た感性を持っていらっしゃることを知り、共感も覚えていたのだが、似ているだけにかえって同族嫌悪的反発も起きる。
少しでも意見の違う部分があると、「いや、それは違うのではないか」と反駁したくなってしまうのである。もちろん、冷静になって考えれば、たいていはムキになる必要もない、少し視点を変えてみればそういう意見も有り得る、という程度の、許容範囲内のものに過ぎないのだが、なかなかそう落ちついて考えられるものでもない。
今回の唐沢さんのご意見の中でも、私は「この作品がカリスマとして、世のアニメマニアたちの常識をくつがえす力を持っていないのは、まさにその出来のよすぎるところに原因がある。ダイナミクスというのは、偏頗なものに宿るのだ。」というところで引っかかった。
考え方自体はまさしくその通りだと思うが、つい、「でもその『偏頗なもの』って、現実的にはたいていダイナミクスのカケラもなく、カリスマにすらなり得ないものが多いんじゃないでしょうかねえ」などと憎まれ口を叩きたくなってしまうのだ。
唐沢さんを毛嫌いする人間なら、更に「唐沢はアカデミズムを嫌うあまり、王動的な作品を否定している」と見当違いの難癖をつけてくるだろう。
もちろん、そんな行為に意味はない。これも唐沢俊一批判をする人間は全く気がついていないことなのだが、唐沢さんがアカデミズム自体を否定したことなどは実は一度もないのだ。
唐沢さんが批判していたのは、“従来の”アカデミズムが見逃し、取り落としているモノが世の中にあまりに多い、という点なのである。
実際に社会を構築し動かしているエネルギーは、「国語算数理科社会」のようなおベンキョウによって作られるものなどではなく、それ以外の得体の知れない様々な“ガジェット”の方にあるのではないか、と指摘しているのである。その論理の立て方自体は立派な「アカデミズム」である。
つまりは従来の知とは別の知の大系でモノを見ようとしているのであって、唐沢さんの「B級学」も、岡田斗司夫さんの「オタク学」も、それが「学」であり、アカデミズムであることは、しっかりタイトルで謳っているではないか。
私が憎まれ口を叩きたくなるのは、唐沢さんたちが、敵のそういった誤解をあえて引き出すために「B級」だの「オタク」だのといういかにも反発を買いそうな言葉を使って差別化を図っている点で、そんな言葉を使わなくても既に唐沢さんたちのやっている行為は「博物学」ないしは「考現学」の範疇で説明できるじゃないか、と言いたくなってしまうのである。
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04月26日(木)
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