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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■アカデミーよりラズベリー/『幽霊暗殺者』(赤川次郎)/ほか
 赤川次郎をミステリとして評価するかってことを大学の推理小説研究会にいた時に論争したことがあるが、私は肯定派だった。
 「謎が解かれるためのデータが、予め読者に提示されていること」という本格ミステリの条件からすれば、赤川ミステリは殆どそれから外れてしまうのだが、現実的に考えれば、じゃあ「予め提示される完全なデータ」なんて有り得るのか、ということになる。指紋が残っていようが遺留品があろうが血液型が解っていようが、現実に犯人がつかまらないケースは多いのである。「データ」は可能性が示される程度で充分ではないか、と思うのだ。
 確かに今回の連作も、別の解決だって有り得るあやふやなものばかりだが、「こう落ちがつけば面白い!」という発想で赤川さんは小説を書いているのである……多分。
 偶然に頼ろうが、そんな設定有り得るか馬鹿野郎、というような話であろうが、おもしろけりゃそれで別に構わんじゃないか(なんか誉めてるように聞こえないかもしれないが、そんなことはないんだよ)。
 ……一応ミステリなんで、チャチでもトリックは明かさずに置くが、犯人当てなんか考えずに読むのが赤川次郎の一番楽しい読み方じゃないかな。
 ……でもウチの女房のように、謎もトリックも一切気にせずに全てのミステリを読むというのはさすがに噴飯ものじゃないかと思うが。


 DVD『ガメラ』、今日は『レギオン襲来』と『邪神(イリス)覚醒』を続けて見る。
 劇場公開時には1作目の感動が大きすぎて、2作目3作目が今イチのように思えていたのだが、連続して見ると、一作ごとに前作との差別化をどのように図ろうとしたかが解って面白い。まさに『エイリアン』シリーズに匹敵する面白さではないか。
 劇場公開時、一番不満だったのは、ともかく俳優の演技がヘタで仕方がない、というものだった。これは『ゴジラ』シリーズにも言えることだが、怪獣映画は狭義のSFの範疇には入らないもので、ファンタジーに近いものである。SFよりも遥かにそのアクチュアリティを成立させることが困難なのである。
 特撮がいかに見事であっても、それを受ける人間の演技がダメだと、その映画は死ぬ。解りやすく言えば、逃げる群集の中に笑ってるヤツがいたら、それだけで観客はしらけるよね。でもなぜかキャストが一列に並んで怪獣同士の戦いを怖がりもせず見つめてる不自然さを突っ込む批評家は誰もいない。そんなもんを約束事にしちゃった時点で日本の怪獣映画は死んだのだ。
 敵を作るのを承知で、更に突っ込んで文句をつけよう。
 目の前にでかい怪獣が突っ立ってるのに前田愛がただ見つめて「ガメラ……」とか「イリス……」なんて呟く演出も、結局は怪獣の存在を卑小化させてしまうことになるのだ。ましてや手塚とおるや山咲千里に至ってはアホにしか見えん。第一作がよかったのは、ギャオスを目の前にした時の中山忍の演技が抑制が効いていてよかったからだ……って、こればっか言ってるな。伊集院光と蛍雪次郎みたいに、大げさに驚かせちゃうのもわざとらしくなるし、怪獣に対するリアクションに現実感を持たせるのは無茶苦茶難しいのである。
 この失敗は脚本の伊藤和典がアニメ出身だということが関係してると思う。絵に演出をつける場合はセリフや演技が過剰じゃないと画面が持たないからだが、それをそのまま実写に持ちこんでるんだもんなあ。
 日本映画が海外で評価されないのは、日本映画的な微妙な演技が外国人には理解されにくいためで、『七人の侍』が評価されたのは三船敏郎の演技が派手で分りやすいからだと断言していい。じゃあ小津はどうなる、と反論する人はいるだろうが、ところがぎっちょん(←なんだこの表現は)、小津って実はモダンで派手なんだよ。……あんな不自然な演技するやつ、当時の日本人だっているものか。
 コメンタリーで蛍雪次郎が言っていたが、「役者はつい余計な演技をしてしまう」ものなのである。
 では、再見してその否定的な印象がなぜ変わったかと言うと、これが「子供」のおかげだったのだ。『レギオン』での前田亜季の「ガメラ生き返る?」というセリフ、『イリス』での「ガメラはボクを助けてくれたよ」のセリフ、子供と動物にゃ勝てないというが、このセリフには明らかにリアリティがあった。

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03月26日(月)
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