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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■せんと・おぶ・うーまん/『妖怪馬鹿』(京極夏彦・多田克己ほか)
『鬼太郎』は偉大なマンガであるが、水木さんは徹底的に孤高の作家であって、後続する作家がいない。諸星大二郎がそうなるかと思ったけれど、「稗田礼二郎」シリーズは妖怪ものと言うには違和感があるし……。『ぬ〜べ〜』なんか特にひどかったしなあ。そろそろ新しい妖怪伝説を生み出すような作家が生まれないものかな。
マンガ、細野不二彦『S.O.S』2巻、第一部完とあるが、こう銘打たれて第二部が再開した例は滅多にない。打ちきりにあったのかなあ。女刑事を陰ながら救うタキシード仮面さまは実はただのストーカーだったってネタ、結構笑えて好きだったんだが。これはあれだな、主人公がいざってときに駆けつけるパターン(『仮面ライダー』の1号2号とか、『変身忍者嵐』の嵐と月ノ輪とか……我ながら例が古いな)を見てて、「どうしてこいつは主人公の危機がわかるんだ?」って疑念から生まれた設定なんだろうな。
マンガ、浦沢直樹『MONSTER』16巻、こないだ手塚治虫文化賞取ったと思ったら、今度は小学館漫画賞。でも現在もっとも面白いマンガのひとつだから、それも当然か。
今回ヨハンは、ただある人物の名前を砂場に書いただけで、それを見た人物にその名の人物を殺させる、という、「暗示の殺人」を数件行っている。
これにはミステリにいくつも先行例があって、例えばアガサ・クリスティーの『カーテン』の中に、暗示だけで人を死に至らしめ、本人は一切罪に問われない、という犯罪者が登場したことがあった。
「暗示」の効果が絶対的だと証明されない限り、仕掛け人が誰か特定出来たとしても、その人物はいわゆる「不能犯」になるのだろう。ミステリでは実に人気があるネタで、江戸川乱歩も『赤い部屋』などの短編でそう言った犯罪の例をいくつか紹介している。
しかし、浦沢さんの非凡なところは先行作の稚拙なパクリにはなっていないところだ。浦沢さんには、それが単なる個人の犯罪レベルで留まるものではなく、社会そのものが一種の洗脳装置として機能しているからだという視点が間違いなくある(岡田斗司夫さんの『ぼくたちの洗脳社会』でも読んだかな?)。我々は常に誰かを洗脳し、あるいは洗脳させられているのだ。
『MASTERキートン』などの先行作品で世界情勢に触れて行くうちに、浦沢さんはそう言った「洗脳」のシステムに興味を持って行ったのではないか。『MONSTER』の設定がハードなのは、いかに天馬がヨハンを殺人者として追いかけようと、ヨハンはあくまで世間的には「善意の人」に過ぎず、社会的に罪があるのはどうしても天馬本人になってしまうという点にある。
「ヨハンの存在自体、天馬の妄想なのではないか」と考えるルンゲ警部の疑念も、今巻でどうやらヨハンの背後にも何らかの「洗脳システム」が存在していることを匂わせていて、にわかに説得力を持ってきた。いや、ヨハンが「実在しない」ということではなく、天馬たちが追っているヨハンが必ずしも殺人者としてのヨハンの実態とは限らない、というニュアンスが漂ってきていることを言いたいのである。評価は完結を待たねばならないが、次巻への期待はたかまるばかりだ。
CSチャンネルNECO『ふろたき大将』を見る。
石橋蓮司の子役デビュー作だということは知っていたが、開巻早々、伊福部マーチが流れてきたのにはぶっ飛んだ。
伊福部昭さんは同じメロディーラインの曲を複数の映画に付けることがよくあって、怪獣映画に慣れてる身にしてみれば、文芸大作、例えば『サンダカン八番娼館・望郷』のオープニングで「ゴジラ、ゴジラ、ゴジラとメカゴジラ」(ちょっと微妙にテンポが違ってるのがご愛嬌)なんて流れ出すと調子が狂っちゃうのだが、この映画もオープニングは『わんぱく王子の大蛇退治』のスサノオ船出のシーンのマーチである。勇壮だなあ。
話は広島の原爆で戦災孤児となった石橋蓮司が、小学校の園長先生(『大魔神』『妖怪大戦争』の神田隆が「いい人」を演じている!)に拾われて、学校のふろたき係をしているうちに、実は生きていたお母さんと再会するというお涙頂戴もの。……なのにBGMが伊福部マーチなのよ(^_^;)。
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02月28日(水)
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