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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■来年の『ゴジラ』はあるのか/『アニメージュ』『ニュータイプ』3月号
『バビロンの黄金伝説』だって、公開当初は旧作なんかとやたら比較されてまともに評価されなかったが、今、虚心坦懐に見れば実に面白い。宇宙人の千年の思いも屁とも思わぬルパンの自由人ぶりがよく出ているのである。……言っちゃなんだが『カリオストロの城』はルパンとして考えるとやはり駄作だよな。ルパンが小娘に拘る理由が分らない(描写が不充分である)ので、「ただのロリコンはルパン、テメエの方だろう」とどうしても突っ込みたくなるのである。
宮崎駿と浦沢義雄の一番大きな違いは、ハッタリのあるなしであろう。もちろん浦沢さんのほうが「ない」のである。
インタビューでも浦沢さんは「人間を描くことに興味はない、芝居がかった芝居は嫌い」とはっきり言っている。実際、舞台で「芝居がかった芝居」をやると覿面に客は確実に「引く」。それが役者の自己満足に過ぎないことを客は一発で見ぬくからだ。
平田オリザの提唱する「現代口語演劇」は「芝居」を極力殺ぎ落とすことで舞台を成立させているが、ドラマらしいドラマが一切起こらず、二時間見続けることが退屈であるにもかかわらず、目が離せないという、極めて不思議な空間を作り上げている。恐らく浦沢さんはこの平田氏の「静かな演劇」も見ているに違いない。演劇に実は「ドラマ」は必要なく、「アイデア」の連続さえあれば、映画も舞台も成立する。そのことは、既に初期のチャップリン、キートンが証明してくれていたことではなかったのか。「泣き」の要素、即ち「人情」はこのアイデアの連続をともすれば中断させてしまうのである。
本格探偵小説などは、実はドラマを一番作りにくい欠点を持っている。何しろ「謎とき」というのは基本的に「盛りあがらない」ものだからだ。だからミステリ作家は無理矢理「名探偵みんな集めてさてと言い」という状況を作り出し、長々と衒学的な長広舌で場を持たすことをよくするのである。
浦沢さんがミステリーのパロディものをやってくれると面白くなるだろうなあ。『ルパン』でそれをちょっとやって見せてはくれてたけど。
今日は女房は朝から仕事の打ち合わせ。
私は父に呼び出されて、背広を仕立てに店屋町までお出掛けである。今年は母の七回忌であるが、父はわざわざ礼服を仕立てるというのが嫌いなので、普段も使える背広を新着したらどうか、と持ちかけてきたのである。普段着でいいなら殊更作る必要はない、と断ろうと思ったのだが、さすがに親父はその辺の私の気持ちは見抜いている。
「もう予約したから来い」
有無をも言わせぬというのはこのことか(^_^;)。誕生日のプレゼント代わりということなので(とうに過ぎとるがな)、仕方なく承諾。
約束では「呉服町の寿屋の前」で待ち合わせ、ということにしていたのに、念のため直前に電話すると父は「博多駅の前」と勘違いしている。
「二回も確認したろうが? 寿屋の前って」
「違おうが。博多駅の前て言うたやないか」
「お父さんは何も言うとらんやないね」
「お前とギロンしようとは思わん」
私が博多弁を使うのはもう父との間だけなので遠慮がない。人によっては私と父はとても仲が悪く見えるかもしれんが、この会話には実は翻訳が必要なのである。
「お父さん、寿屋の前で待ち合わせにしてよかったの?」
「いや、博多駅の前にしてくれてた方が覚えやすかったなあ」
「そうすればよかったね、駅から歩けば話もできたし」
「まあ、積もる話はそのうちゆっくりしよう」
……全然そんな会話になってないじゃないか、と思う向きには博多の文化は永遠に分らないであろう。博多弁はストレートなもの言いが特徴的でありながら、言葉と心の乖離がとてつもなく大きい言語なのである。
で、もちろん待ち合わせは「寿屋の前」。
自転車をすっ飛ばして10時に父と会うと、父は手提げ袋に以前プレゼントした藤田まことのサイン入り『必殺!』巾着を使っている。父は、会うたびに必ず私が贈った時計だの帽子だの、そういうアイテムを使っているところをさりげなく見せる。なかなか奥ゆかしいことではあるが、しばらく経つとどこへやったか忘れて別のものを買ってたりするので、苦笑することもしばしばである。
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02月12日(月)
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